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「スパイダーウーマン!」。2018年8月のアジア大会で、アリエス・スサンティ・ラハユ選手がスポーツクライミングの女子スピード種目で、インドネシアに金メダルをもたらした。インドネシアの貧しい家庭が直面する現実を、アリエスの成長を通して描く。
文・横山裕一
まだ記憶に新しい、2018年8月にインドネシアで開催されたアジア大会。このうち南スマトラ州パレンバン会場であるヒロインが誕生した。翌日の新聞には「スパイダーウーマン!」のタイトルとともに、ロープに吊るされながら両手を組んで勝利の喜びを祈る姿の写真が大きく紹介された。
アリエス・スサンティ・ラハユさん(当時23歳)。スポーツクライミングの女子スピード種目で金メダルをインドネシアにもたらした彼女がその人だ。本作品は彼女の生い立ちからアジア大会で金メダルを勝ち取るまでの苦悩や努力を描いている。
スポーツクライミングは、近年日本選手の活躍で日本人ファンも増えている競技で、困難な壁面をじっくりと足場や手がかりを探しながら登るボルダリング、時間内にどこまで登れるかを競うリード、そしてスピードの3種目がある。
スピードは15メートルの世界共通仕様のルート壁面を登るタイムを競う。このため競技では対戦する2選手がスルスルと壁をよじ登っていき、スピード感溢れる、まさに「スパイダーマン」さながらの闘いとなる。
物語は彼女の出身地、中部ジャワ州グロボガン(スマランの東約50キロ)にある農村での、小学生時代から始まる。母親と二人暮らし、お転婆で男子児童との喧嘩もいとわない負けず嫌いな性格の彼女。木登りが好きで、足下の悪い泥道の石の上をピョンピョンと平気で渡るなどこの頃から非凡なバランス感覚の一端をのぞかせていた。
ある日、家の入口脇にある足を洗うための水瓶の前で母親が彼女に話しかける。
「アユ(アリエスの子供時代の呼び名)、寂しい時は、水瓶の水に向かって話しかけると、寂しくなくなるのよ」
母親は娘の学費などのため、外国へ出稼ぎに出なければならなかった。叔母の家に預けられるアユ。母親と離れ、寂しい想いを募らせながら学校生活を送る。
中学生となったある日。女子選手を捜していたスポーツクライミングチームに、コーチの知人であるアユの教師がアユを紹介する。早速クライミングに挑戦するも巧く登れない。ところが負けず嫌いなアユは一念発起、クライミングにのめり込み、一流選手へと育っていく。
この作品が興味深いのは、単なるサクセスストーリーではなく、インドネシアの貧しい家庭が直面する現実そして心情を、アリエスの成長を通して描いている点だ。経済格差の大きいインドネシアでは、都市部に比べ地方の農村部は仕事口が極端に少ない。このためアユの母親のように女性は主にメイドとして外国へ収入を求めて出稼ぎに行かざるを得ないのが現状である。
インドネシア中央統計局によると、貧困率は年々減ってはいるものの9.66%、失業率は5.34%(いずれも2018年)。国外での出稼ぎ労働者数は365万人にものぼる(2018年インドネシア銀行調べ)。メイドとしての出稼ぎ労働者の中には、雇用主から虐待を受けたり、賃金未払いなどトラブルに巻き込まれるケースも多く、家族のためとはいえ過酷で孤独な労働である。
アリエスはまさにインドネシアの経済格差社会で典型的な厳しい環境のもと育ってきた一人と言える。普段は気丈に振る舞ってはいるが、時折母親への恋しさが募り、自分の弱さに負けてしまうたびに、アリエスはかつて母親から教えられたように戸口の脇にある水瓶に向き合う……。
映画タイトルの「6.9秒」は、映画の後半、アリエスのコーチから発せられたスピード競技での目標タイムである。現在の女子世界記録が7.10秒、この数字を大きく上回るものだ。
「そんなのできるわけ……」
コーチの厳しい指導、伸びない記録、痛み傷つく指と足先。弱気になり「辞めたい」と言い出すアリエス。しかし、コーチが求めた「6.9秒」という数字には、現状に甘えてしまっている彼女が自分に打ち克ち、さらに前へ踏み出して欲しいという願いが込められていた。
思い悩むアリエス。競技のため大学も中退してしまっていた。ここで競技も辞めたら自分の存在意義はどうなる。そんな折、2年に一度出稼ぎから戻ってきた母親は、昔と変わらぬ優しい笑顔をたたえ、愛情溢れた姿だった。
「お前はお前のままでいいんだよ」
優しいながらも力強く励ます母親の言葉を胸にアリエスは再度挑戦していく。
映画の最終場面は冒頭紹介したアジア大会の優勝シーンである。彼女はまさに自分の内面にある弱さに打ち克ち、金メダルを手にする。記録は6秒台どころか世界記録にも及ばなかったが、彼女が自分の人生を強く生きていく意味で「6.9秒」を達成したといえるのだろう。
実はこの作品、幼少時、中学生時のアリエス役の子役2人に加え、成人時はアリエス本人が演じている。当初は初挑戦の「演技」に戸惑ったとのコメントが報じられているが、最後の競技映像への橋渡しとしても非常にスムーズに観ることができる。
来年、2020年の東京オリンピックでは、スポーツクライミングが正式種目となる。日本選手が苦手とするのがこのスピード種目。最近の国際大会の結果を見る限りでは、アリエス選手は若干低迷しているようだが、是非とも再度奮起して日本ファンの目の前でも自らの「6.9秒」を手にしてもらいたいと思う。(残念ながら東京五輪では、同競技は3種目の合計点で順位が競われるため、スピード種目だけのメダルはないようだ)
インドネシア映画で、スポーツ選手の偉業などを描いた作品としては、宗教紛争を乗り越え、マルク州代表としてサッカー全国大会に臨む「東インドネシアからの光(CAHAYA DARI TIMUR/2013年)、ソウル五輪で銀メダルを獲得した女子アーチェリーの3選手を描いた「3人のスリカンディ(3 SRIKANDI/ 2016)」などがある。今年年末には、インドネシア初の五輪金メダリスト、バドミントンのスシ・スサンティさんを描いた作品が公開予定で、楽しみだ。(英語字幕なし)

