文・写真 横山裕一

 

 イスラム教徒にとって重要な意味を持つメッカ大巡礼をめぐってのコメディドラマ。中部ジャワ州の片田舎とジャカルタを舞台にドタバタ喜劇が続く。

 自動車修理業を営むエディはエニと相思相愛。しかしエニの父親は反対で、娘を金持ちの男性と結婚させようとする。このためエディはエニを幸せにする誓いとして、彼女の父親に「メッカ大巡礼をしてハジになる」と宣言する。

 イスラム教徒にとってメッカ大巡礼は、信仰者に義務付けられた五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)のひとつで、これを終えると信仰上の「行」を深めたとして、男性はハッジ(インドネシア語ではハジ)、女性はハッジャ(インドネシア語も同じ)と尊称をつけて呼ばれる。

 ただし、メッカは遠隔地のため経済的体力的に可能な者が行えば良いともされている。それだけに大巡礼の経験者はイスラム教徒社会の中でステータスを得ることにもなる。このため同作品の主人公も結婚の決意表明の条件に使ったといえる。

 早速エディは大巡礼を扱う旅行代理店へ行くが、応募者多数で10年待ちだと言われる。がっかりするエディに声をかけたのが悪徳業者。意気揚々と出発のためジャカルタに行くエディ。しかしここで詐欺にあったことに気づく。エディの結婚実現に赤信号が灯る…。

 奇しくも同作品の公開初日に、メッカ巡礼にまつわるニュースが飛び込んできた。新型コロナウィルス感染防止のため、サウジアラビア政府が2020年のメッカへの小巡礼を期限を設けずに当面中止すると発表したのだ。

 メッカ巡礼には大巡礼と小巡礼がある。前述のイスラム教徒に課せられた五行のひとつが大巡礼で、イスラム暦12月8日から12日までの五日間にメッカとその周辺を巡礼する。これに対し小巡礼はそれ以外の期間にメッカを巡礼するもので、経済的に余裕があり信仰心の高い人は何度も行く場合もある。

 新型コロナウィルスの感染拡大で、日本では東京オリンピックが無事開催されるのかが大きな関心事だが、イスラム教徒にとっては小巡礼の禁止期間が延びて、7月末に予定されている大巡礼まで中止になってしまわないかが最大の心配事になってしまった。

 2020年の大巡礼は西暦でいうと7月28日から8月2日。まさに東京オリンピック(7月24日開会)とほぼ同時期で、事態の収束状況いかんでは微妙な時期となる。

 メッカ大巡礼が宗教上いかに重要であり、大変なものであるか。簡単にまとめてみる。期間は前述のように五日間だが、期間中世界各地から250万人が殺到するため、前後余裕を持った長期滞在を余儀なくされる。

 大巡礼の際、巡礼者はイフラームと呼ばれる白い布2枚だけで身を包む(女性はイスラム服)。これは貧富の差なくどの信仰者も神の前では同じであるとの意味からである。

 大巡礼初日、メッカ郊外のミナという地域で礼拝を行う。ここが基本的に巡礼期間中の本拠地となり、国別に大規模なテント村ができあがる。

 第二日目、十数キロ離れたアラファト山へ移動し、礼拝で過去の過ちを省みるとともに、イスラム学者の説教を聞く。アラファト山はムハンマドが最後に説教をした場所で「神の前に立つ」という意味があり、大巡礼の中で最も重要な日となる。

 第三日目、ムズダリファを経由してミナへ戻った巡礼者は「ジャマラートの投石」の儀式を行う。これはイブラヒムの故事に基づき、悪魔とみなした壁に7つの小石を投げて、悪魔を追い払うものである。この儀式の後、一匹の動物を犠牲にして神に捧げる(この日が犠牲祭の日/IDUL ADHAにあたる)。

 このあと巡礼者は髭を剃り、女性は髪の毛を数センチ切る。これは再生の象徴で、巡礼者の罪が一掃されたことを意味する。続いて約5キロ離れたカーバ神殿のあるメッカのアル・ハラーム・モスクを訪れ、日没までにミナへ戻る。

 第四日目、前日を含めて合計3カ所の壁に石を投げ終えて、メッカに再び移動する。

 第五日目の最終日、巡礼者は別れを告げる意味も含めて、アル・ハラーム・モスクの中心にあるカーバ神殿を左回りに7周する。またモスク内にある二つの丘の間をも7往復する。これで大巡礼が完了する。

 このように大巡礼には相当な時間と体力を要する。各地への移動には近年は車や鉄道が利用されているが、かつては全てが徒歩だった。現在でも巡礼途中にお年寄りらが亡くなる例が毎年多数あるという。

 また長期滞在のため、費用も高額となる。インドネシアでは少なくとも数十万円はかかり、裕福でない人たちにとってはまさに生涯かけて資金を貯めていくことになる。

 さらに大変なのは、大巡礼を安全に行うためサウジアラビア政府が毎年各国からの大巡礼者の人数を制限していることだ。インドネシアは2020年で23万1000人に大巡礼用のビザが配給される。

 政府関係者によると2020年のインドネシア人の希望者は430万人余り。同作品内では主人公が旅行代理店に10年待ちと告げられるが、実際には単純計算で18〜19年待ちとなっている。まさに一生に一度をかけた一大行事となる。

 イスラム教徒にとって一生をかけるほどの信仰上の願望につけ込むのが、同作品でも暗躍した巡礼ツアー詐欺業者だ。実際に悪徳詐欺は毎年のように後を絶たない。

2019年もジャカルタ郊外のデポックの旅行代理店ダムツアーが200人の大巡礼、小巡礼希望者から合計40億ルピア(約3000万円)を騙し取り、警察に逮捕されている。 

 特に世間を騒がせたのが、2017年のファーストトラベル小巡礼詐欺事件で、被害者が約6万3000人、被害総額約9050億ルピア(約68億円)と大規模なものだった。騙し取った金で経営者夫妻が欧州豪遊などをしていたことも発覚した。(夫妻は禁錮20年と18年の実刑判決)。

 以上のように、イスラム教徒にとっての大巡礼は非常に重要で神聖なものであるが、それを題材にコメディ展開したところにインドネシア人のユーモアも感じられる。主人公と同じく詐欺被害者仲間になるのが、なぜかキリスト教徒が多いパプア人に設定されているのも面白く、理屈抜きで楽しめる作品だ。

 

予告編

https://www.youtube.com/watch?v=mrHyP-txS2Y

 

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