文と写真・鍋山俊雄
Kの形をしたスラウェシ島の北東に、スラウェシの子供のように、小さなKの形をした島々がある。それが今回から2回に分けてご紹介する北マルク州だ。
マルク諸島はジャカルタから遠く離れた東部インドネシアにあり、あまりイメージが湧かないかもしれない。東端のパプア・ニューギニア島とスラウェシ島、これら二つの大きな島に挟まれた小さな島々の集合体がマルク諸島だ。
16世紀以降の大航海時代、ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダなどの欧州列強が、この地域特産のスパイスの争奪戦を繰り広げた。「香料諸島」の別名がある。
北マルク州は1999年にマルク州から分離されて出来た。小さなKの交差部分には双子の島(テルナテ島、ティドレ島)があり、そのうちテルナテ島が北マルク州のハブとなっている。
北マルク州の第1回は、北マルク州最北部にあるモロタイ島から入って、ハルマヘラ島を抜け、テルナテまでを巡る旅。


ジャカルタを午前4時前に出発し、同7時過ぎにスラウェシ島のマナドに到着。そこからプロペラ機に乗り換えて、テルナテ経由でモロタイ島に着いたのは同10時半ごろだった。バス停の待合室のような小さな空港に到着した。
インドネシア政府は2016年、バリ以外の国内観光地10カ所の観光開発を進めていくと発表した。モロタイ島はその10カ所のうちの一つに入っている。手付かずの美しい海のほか、太平洋戦争時に米国を中心とする連合軍と日本軍の間で激しい戦闘が行われ、その傷跡が残る島でもある。

海沿いにあるコテージ型のホテルにチェックインした後、早速、市内を巡る。モロタイ島は人口5万人程度。小さな漁村が連なる風景の中、所々に戦争遺跡がある。

最初に訪れたのは町外れにある道の交差点で、大きな台座の上に立つ銅像がある。銅像の台座には「Teruo Nakamura」と書かれている。台湾籍で日本兵として戦争に参加し、終戦後もモロタイのジャングル内に約30年間潜伏し、1974年に残留兵として発見された中村輝夫氏だ。

島には、被弾した米軍の戦車が森の中に残っていたり、南の海岸側には日本軍が建造した滑走路跡もある。



街中にある戦争博物館を見学した。ここには、先ほどの中村輝夫氏に関し、発見に至るまでの記述が写真入りで説明されていた。案内してくれたガイドによれば、この博物館とは別に、ガイドが個人的に収集した戦時中の遺品コレクションがあり、この博物館に負けない量の収集品があると言う。案内してもらうと、小屋の中に所狭しと、機銃の銃身や、まだ弾帯の装填された機関銃、防弾ヘルメットなどが並べてある。戦禍の後、拾い集めた物だろう。




翌日は、スピードボートで周辺の島々を巡る。澄み渡る青い空の下、最初に向かったのは、干潮時には波に隠れて見えなくなる、パシール・ティンブル(Pasir Timbul)島。白浜がポツンと浮かんでいるような所で、小学校の校庭の広さもないようだ。



青色からターコイズブルーへ変わる海のグラデーションを楽しみながら、島から島へとホッピングする。気が付くと、イルカがボートに並んで跳ねていた。


昼食を取るドドラ(Dodola)島は、二つの島がひょうたん型に並んでいる。満潮になると二つの島をつなぐ砂の浅瀬部分が沈んでしまうため、二つに分かれてしまう。ここの浅瀬を散歩すると、空と海の境目がぐるっと360度見渡せる。「天国に一番近い島」というフレーズを思い出した。


次に立ち寄ったスムスム(Zum Zum)島には、敗戦後の日本に連合国軍最高司令官として進駐したマッカーサーの銅像が建っていた。当時、連合軍の指揮官であったことから、この地にも銅像が建っているのだろうか。



3日目の朝は、モロタイ島から対岸のハルマヘラ島トベロ(Tobelo)へとスピードボートで渡り、車で海岸線に沿って南下していく。いくつかのスポットに立ち寄りながら島を縦断し、テルナテ島まで移動する。

最初のスポットは、草原に滑走路が一本あるクアバン・カオ(Kuabang Kao)空港だ。太平洋戦争時に日本軍によって建設されたもので、まだ商業利用されているが、便数は少ない。立ち寄った日にはフライトがなかったため、滑走路にも立ち入ることができた。

滑走路の脇には防空壕がある。草むらの中に扉があり、扉を開けるとコウモリが出て来た。中は、窓のない部屋があるのみ。

高射砲も残っていた。空港防御のために設置されたもので、砲身には日立らしきマークが見える。砲身は錆びてはいるものの、しっかり4機、長さ約5メートルの砲身が空に向かって伸びていた。


空港からしばらく海沿いの道を進むと、遠浅の海に座礁した船の残骸が残っている。これは「トシマル(Toshimaru)」という日本軍の軍需物資輸送船で、米国軍の爆撃を受けて大破した残骸だそうだ。船首部分のみが残っており、船全体がどれぐらいの大きさだったのかはよくわからない。遠浅の海で、歩いて近付けるように見えるが、船の近辺は深いため、ボートがないと近寄れないらしい。


その後、グラピン(Gurapin)港からスピードボートに乗り、小1時間かけてテルナテ島に渡った。
正面にはテルナテ島とティドレ島の二つの島が見える。テルナテ島は、島の中心にある活火山、ガマラマ山の南側に街が発展している。

海岸沿いから山頂に向けて、段々畑のように建物が連なる中、街の中心部にあるアル・ムナワル・テルナテ(Al Munawwar Ternate)大モスクが見えた。このモスクは海に半分張り出したような設計で、テルナテのアイコンのひとつとなっている。


テルナテ島は13世紀ごろからテルナテ王国が統治していた。世界で最大の丁子の生産地として富み、その勢力は、スラウェシやパプアの一部まで広がっていた。隣のティドレ島にあった王国とは仲が悪く、二つの島の勢力争いが続いていた。
16世紀初頭、まず、ポルトガル人がテルナテを訪れ、キリスト教の布教と丁子貿易の独占を図った。しかし、すでに15世紀ごろにジャワからイスラム教が伝わっていたテルナテ王国にはキリスト教布教はなじまず、テルナテ王国はポルトガルを追放した。
隣のティドレ王国がスペインと同盟を組んだため、テルナテは軍事対抗上、オランダと組んだ。その後、18世紀には、オランダ東インド会社がマルク地域の香料貿易の管理拠点として、テルナテを押さえている。このような歴史的背景から、この地域にはインドネシア語で「ベンテン(Benteng)」と呼ばれる要塞が多い。テルナテ島、そしてティドレ島(次の「北マルク州㊦」でご紹介)ではベンテン巡りをすることにした。
テルナテ最終日の午前中はまず、宿近くにあるガデ(Ngade)湖を望む高台から、対岸のティドレ島を望むスポットに向かった。旧1000ルピア紙幣の裏側の絵になった風景だ。ティドレ島と、その前にあるマイタラ(Maitara)島の重なり合う絶景が美しい。



その後、二つの要塞を見学した。まずはカラマタ要塞(Benteng Kalamata)。16世紀にポルトガルによって建造され、海岸沿いに、菱形に似た形で作られた。対岸のティドレ島に最も近い所にある砦だ。砲台を設置したと思われる壁の穴からは、ティドレ島がよく見える。


もう一つは空港の近くにあるトルッコ要塞(Benteng Tolukko)。こちらも16世紀初頭にポルトガル人によって、元々は丘であった場所を改良して建てられた。160人もの駐屯軍が警備していたとの説明がある。海への備えと、テルナテの街を監視する両方の役目を担っており、ここからはテルナテの街がよく見渡せた。



これらの要塞が設置されている位置を地図上で見ると、いずれも、ハルマヘラ島とティドレ島に対面するように設置されていることがわかる。要塞見学後、昼のフライトでジャカルタに戻り、4日間の北マルク縦断の旅が終わった。
長めの休みがあればトライしたいルートだが、「週末弾丸旅行」であれば、テルナテ近辺に絞って行くことを香料諸島巡りの入口としてお勧めしたい。

