SCIENCE OF FICTION Hiruk-Pikuk Si Al-Kisah
政界、財界、そして我々が生活する日常社会を含めて、現実の陰には裏の現実が潜んでいることが多い。どちらが真実(ノンフィクション)でどちらが虚構(フィクション)なのだろうか。そんなことをあれこれと考えてしまうような示唆に富み、過去を含めた現代社会を批判した印象深い作品。
文・横山裕一
時は1960年代後半、ジョグジャカルタの海岸で極秘裏にあたかも実際に宇宙船が月面着陸したかのように、宇宙飛行士が活動する様子が撮影されていた。「ニクソン大統領は、インドネシアのスハルト大統領に月で採取した石をプレゼントする予定です……」テレビでニュースが流れる。この政府を巻き込んだ捏造、大スキャンダル撮影の一部始終を目撃した若者、シマンは白人に見つかって舌を切られてしまう。
舌を切られたシマンは、まさに「都合の悪い者の口を封じる」当時の被害者の象徴でもあった。目撃した事実を暴露するどころか、一切しゃべれなくなったシマンはその後、まるで宇宙遊泳しているかのごとくスローモーションで動くようになる。まるで権力による言論統制に反発し、批判するかのように。
作品の前半は白黒映像で、過去の出来事というイメージだけでなく、登場人物の表情の迫真さが増して伝わってくる。そして、中盤から映像は鮮やかなフルカラーとなり、現代に舞台が移ったことを認識させる。
現代になってもシマンは宇宙遊泳のように動き続けていた。荷物運びなどで日銭を稼ぎ、月着陸船のような形の家を作り、宇宙服も作る。人々は馬鹿にし、面白がって舞踊や結婚披露宴の余興に呼んだりもした。そんなシマンの行動がスローでなく、通常に戻って動くことがあった。友人に裏切られ金を盗まれたり、約束された報酬がごまかされた時、つまり失望や怒りといった感情が高ぶった時だ。そしてもう一つ、感情にかられ通常に動く時が現れた。彼の中に何かの変調がきたしたかのように、彼は欲望に赴くままの行動を取ってしまい、長年あらがってきた批判対象と同じ側に入ってしまったかのように自ら苦しむ……。
物語はジョグジャカルタ周辺部の田舎町での、奇行を続ける男と彼を取り巻く人々の出来事が淡々と綴られていて、それだけでも興味深いがその背景、奥底に様々な過去や現代社会への示唆が込められている。
主人公が舌を抜かれた当時は、1965年に起きた共産党系将校によるクーデター未遂といわれる930事件を契機に、国軍を中心に全国の共産党支持者が大量殺害されていた時代。930事件を鎮圧したスハルト陸軍戦略予備軍司令官(当時)が権力を得て後に大統領となり、国民に対しては国軍の脅威を背景とした言論統制を強いた。
シマンが現代になっても奇行をやめないのは、過去の事件に対する告発だけでなく、民主化、言論の自由が実現したと言われる現代においても、依然としてタブーや闇社会の暴力による言論統制が存在することを批判しているかのようにも見えてくる。2004年の人権活動家ムニール氏の毒殺事件や近年台頭するイスラム急進派の傍若無人な行動に人々が声をあげられない状況などだ。ある権力者にとって不都合な者を保身のため排除する意味では、汚職撲滅委員会の捜査官が襲撃された事件もある。
現代のシマンの身に降りかかる事件、友人による現金の窃盗や結婚披露宴でのパフォーマンスに対する報酬の支払いをごまかされることは、まさに自らの利益のために、弱い立場の労働者や消費者をないがしろにする経済マフィアを揶揄しているともいえそうだ。
作品中に、おそらく研修生として日本で働き、その報酬をもとに帰国して鉄工所経営を始めた男が登場する。「私立川口」と刺繍された体操着や中日ドラゴンズのユニフォーム(ちなみに落合監督時代の井端選手のもの)を普段着として身につけた彼は、シマンを含む労働者のボスで、シマンが報酬をごまかされる結婚式での仕事も橋渡しをする。外国高級ブランドに身を包んだ経済マフィアの田舎版として比喩されて描かれているようにもみえる。
同作品の監督は、社会問題を鋭く斬る若手実力派のヨセップ・アンギ・ノエン(Yosep Anggi Noen)監督(37歳)で、主演のシマン役を演じたのは演劇家でもある、グナワン・マルヤント(Gunawan Maryanto)氏(44歳)。映画「言葉にするのはやめておこう」(2017年公開/ ISTILAHATLAH KATA-KATA)に続いてのコンビだ。グナワン氏は12月上旬に開かれたインドネシア映画祭2020では、最優秀主演男優賞にも選ばれている。舌を切られた役で、一言もセリフの無い中での受賞は演技派俳優の面目躍如である。また同作品は有力雑誌「テンポ」(TEMPO)の誌上映画祭で最優秀作品賞を得たほか、海外の国際映画祭でもノミネートされるなど評価を受けている。
同作品冒頭の、宇宙船着陸シーンを地球上で捏造撮影するシーンは、1977年に日本で公開されたアメリカ映画「カプリコン・ワン」(CAPRICORN ONE)を彷彿とさせる。この作品はロケット発射直前に下船させられた乗組員が砂漠での着陸捏造撮影後、逃亡して当局から命を狙われるというアクションサスペンスへと展開する。まさに「サイエンス・オブ・フィクション」はインドネシア版「カプリコン・ワン」とも言えなくもないが、単なる焼き直しにとどまるのでなく奥行き深い作品に高められている。アクションとは逆のスローモーションの主人公を通して、インドネシアの歴史的事件から現代社会までを鋭く斬っているところだ。
さらに考えながら鑑賞を続けると、日々の出来事には裏があり、実際にはどちらが真実でどちらがフィクションなのかと自らを問いかけ直してみたくなる。まさに作品タイトルである「ある男」を通して、「偽りの科学」ひいては「偽りの社会」をあぶり出している作品といえる。
注意深い人から見ると、冒頭の宇宙船捏造撮影シーンで、明かりに群がる虫を見て、「宇宙で昆虫が映されるのはありえないだろう」とか、「1960年代から約50年経っているのに、主人公が全然歳をとっていない」と指摘されるかもしれないが、同作品の本質部分からみれば問題はないかと思われるし、あえて主人公が歳をとっていないのは、どの時代にもいる「裸の王様を見破る子供」を象徴した存在であるためかもしれない。その意味でも「サイエンス・オブ・フィンクション」なのだろう。
上映劇場は限られているが、とても映画らしい映画といえ、是非あれこれと思いを巡らせながら鑑賞していただきたい。(英語字幕あり)