文と写真・鍋山俊雄
マルク州は、ジャカルタからは飛行機で約3時間半。ジャカルタとの時差は2時間あり、日本と同じ時間帯となるインドネシア東部標準時地域。スラウェシの向こう側でパプアの手前にある、美しい海に囲まれた島々の集まりだ。
私が初めてマルク州の名を耳にしたのは1999年、最初のインドネシア赴任の時だ。当時、イスラム教徒とキリスト教徒がマルク州アンボンなど各地で衝突する紛争が頻発していた。こうした状況下で、当時のマルクは外国人が気軽に近寄れるような場所ではなかった。それから16年経った2015年にアンボンを初めて訪れ、その後も何度か、マルク州の玄関であるアンボン経由でマルクの島々を巡った。
マルク諸島は州都があるアンボン(Ambon)島から、南東に向かってカーブを描きながら大小の島々が飛び石状に並んでいて、東ティモールのあるティモール(Timor)島の北側のウェタル(Wetar)島の辺りまで続いている。この島々は船でぐるっと回れるが、時間が相当かかる。
週末弾丸旅行であれば、アンボン経由でケイ(Kei)諸島、アルー(Aru)諸島、ヤムデナ(Yamdena)島には空路で行くことができる。
今回は、美しい海が広がり、インドネシア人旅行者に人気のあるケイ諸島への旅をご紹介する(情報は2016年当時)。ケイは「Kai」と書かれている場合もあるが、私が地元で聞く限り、皆「Kei」と発音していた。ケイ諸島の中のケイ・クチル(Kei Kecil)島に滞在した。
ケイへのアクセスは、ジャカルタからは夜行便のアンボン行きに乗る。ジャカルタから東部インドネシアへ行く場合、行きは2時間進み、帰りが2時間戻るため、出発は必ず、アンボンに午前6〜7時には着く夜行便に乗り、アンボンの空港で朝食を取り、そこから各島に向かうウイングズ(Wings)のプロペラ機に乗り換える。
アンボンからケイ諸島まではプロペラ機で約1時間半。以前は街中に近い所に空港があったが、郊外にある島の南部に移転したため、空港から北部の海沿いの宿に向かうまで小1時間かかった。何もない草原が広がる中、一直線の道路がひたすら続いていたのが印象的だった。
2泊する宿は海岸に面したコテージで、目の前にはすぐ白砂が広がる。海も遠浅で、干潮時には数百メートル沖まで歩いて行ける。周囲は小さな村で、教会とモスクの両方があり、イスラム教徒とキリスト教徒が混住している。
宿で一休みした後、島の西部にあるパンジャン海岸(Pantai Panjang)に行ってみた。オジェック(バイクタクシー)で約30分、辺りに何もない中、まだ真新しい2車線の舗装道路が一直線に続いている。
パンタイ・パンジャンはその名の通り、「長い(=パンジャン)」白砂の海岸が続く。ここの白砂は粒が細かく、湿り気が多いので、しっとりとした粘土の上を歩いているような感覚だ。
海岸ではサッカーボールを追う子供が数人、そして、バケツを持って何かを集めている女の子が数人いるだけだった。バケツの中を見せてもらうと巻貝がいっぱい入っており、「売るの?」と聞いたら「食べるの!」と言われた。夕食の材料を集めているのだろう。
海が遠浅だからか、夜になっても波の音は小さくて静かだ。民家は近くにはないので、一面に広がる星空がとてもきれいだった。
翌朝は満潮になっていたが、遠浅の海なので、かなり遠くの方までエメラルド色が続き、あまり見たことのない不思議な光景だった。
今回は3日間の旅行で、往復の移動に時間がかかり、実質1日半ぐらいしか島にはいられない。2日目は街中まで出てみることにした。
宿から街までは、歩くとかなり遠い。途中、海岸沿いの村の見晴らしの良い丘にキリスト像があるので、まずはそこまで歩いてみることにした。東にひたすら歩けばそのうち着くだろうと砂利道を歩いていると、対向車にも人にも出会うことはほとんどない。真っ直ぐの道を1時間余りもずっと歩いていると、キリスト像が見えてきた。見えてからもさらに30分ぐらい歩いて、丘を登り、ようやくキリスト像にたどり着く。あたりは360度、海と草原の広がる風景だ。
カトリックの多い地域では、このように、ちょっとした丘の上にキリスト像やマリア像が設置されていることが多い。
キリスト像の麓にある小さな村で、通りがかったバイクに頼んで、ラングル(Langgur)の街まで乗せてもらった。建屋が新設された伝統市場には15分ほどで着いた。街中にもモスクと教会が混在している。
ケイ・クチル島は隣のドゥラ(Dullah)島と、橋で結ばれている。ドゥラ島に歩いて渡り、トゥアル(Tual)の街中を見学した。
街中を歩いていると、中東系の顔立ちをした人々が目に付く。トゥアルの大モスクは残念ながら改装工事中だったが、そのモスクの前の商店にアラブ系に見える店主がいたので、そのことを聞いてみた。ケイ島には昔、アラブ人や中国人の商人が多く来ており、中には定住する人も多かったので、その子孫が多く住んでいる、とのことだった。
ラングルの街に戻った後、今度は、車の通れないほどの小さな吊り橋で繋がっているファイル(Fair)島にも渡ってみた。外国人が珍しいのだろう、村の子供たちが寄って来て写真撮影大会になった。私は旅行先ではすぐに写真を撮れるように肩から一眼レフを担いでいるのだが、地域あるいは島によって、同じインドネシアでも反応は二つに分かれる。大人も子供も次々と写真を撮ってくれと声をかけてくる「写真大好き」か、子供であってもカメラに全く興味を示さない所か、だ。この島は明らかに前者だった。
街中を歩き回った後、夕方に宿に戻ると、また潮が引き、かなりの遠浅になっている。500メートルくらい歩いてみたが、海はまだかなり先だった。
滞在期間が短かったので、ケイ・クチル島の横にあるケイ・ブサル(Kei Besar)島に行くことはできなかった。ケイ・ブサル島に人はあまり住んでいないが、美しい海岸やシュノーケルのスポットなど、見所も多い。
ケイ諸島には、オープントリップ(旅行会社が定員を決めて現地集合解散で募集するツアー)も出ているので、また来るチャンスがあれば、来てみたいものだ。
3日目は午前6時過ぎにケイを出る便で、アンボンには同8時ごろ到着した。昼過ぎに出発するジャカルタ行きの便まで6時間ぐらいあったので、空港にいたタクシーを4時間チャーターして、アンボン観光をすることにした。
まず行ったのが紅白橋(Jembatan Merah Putih)。アンボンの空港と街は、逆コの字をしたアンボン島のそれぞれの上下に位置しているため、空港から中心街に行くには、コの字に沿ってぐるっとアンボン湾を周る必要がある。車で2時間近くかかっていたのだが、途中を結ぶ高架橋が2016年に出来てから、40分ぐらいで行けるようになった。
初めてアンボンに来た2015年初頭にはこの橋はまだ完成していなかった。車で渡ってみると、しっかりした吊り橋で、アンボン湾の両側の風景を見ながら、すぐに中心街まで行くことができる。
次に向かったのが、山を越えてアンボンの北側にあるアムステルダム砦(Benteng Amsterdam)。早くからマルクに進出していたポルトガルが16世紀初頭に、ナツメグや丁子の貯蔵場所として建造した。ポルトガルを追い出した後に、オランダが掌握した砦だ。砦の上から、アンボン島の北側にある大きなセラム(Seram)島がよく見える。
「アンボン・マニス(Ambon Manise)」という言葉がある。「美しい(かわいい、かっこいい)アンボン」という意味だ。
2015年初頭に初めてアンボンを訪れた時に、島を案内してくれた運転手にいろいろ話を聞いた。
元々、マルク諸島ではキリスト教徒が多かったが、スハルト政権下での国内移民奨励策により、スラウェシのマカッサルなどから多くのブギス人(イスラム教徒)がすでに移住していた。地域ごとにイスラム教徒居住の村、キリスト教徒居住の村と分かれてはいたが、平和に暮らしていた。ところが紛争時には、白装束のイスラム教徒が大挙してマルク外から飛行機でアンボンに続々と入ってきたそうだ。この1999年から2002年の紛争では数千人が亡くなったとされている。
キリスト教徒の村で、破壊された後に再建途上の教会を見ながら、「この村の住人はイスラム教徒の集団が襲撃してきた時には、あの山に逃げて隠れた」というように、具体的に話してくれた。今では平和になり、異教徒同士の日常の交流も元に戻った、と話していた。街中も、そんな紛争があったとは感じられない様子が印象的だった。
アンボン島は、かつては香料貿易の拠点となり、ポルトガル、オランダなどの占領を受けた。古いカトリック教会など、エキゾチックな建物もいまだに多く残っている。マルク州の離島巡りをする時の拠点としても、是非訪れたい島の一つだ。