1日目
ワイサイの朝
ラジャアンパット県ワイサイの朝。午前8時前だというのに強烈な日差しを直下に受けたピックアップ車の荷台には、僕を除く全員がすでに待機していた。ゴツゴツした道を通ってたどり着いたのは、ひなびた入り江。荷台を飛び降りた人たちは足早に、二艘の小ぶりな、しかし船足の早そうなボートへと乗り移って行く。その様子をおろおろしながら眺めていると「早く、こっちへ乗ってくださ~い」という声とともに、南極星取材班のミズホさんが奥の船から手招きするのが見えた。その表情は、かなり険しく、「おい、押しのけてでも乗らんかい!」とでも言いたげである。実際、奥の船は混み合っていた。とはいえ、手前の船もすでに椅子取りゲームのような様相で、僕は少々、途方に暮れていたのだが、ミズホさんの気迫に促されるようにして奥の船に飛び乗った。すると、船長の怒鳴り声。「遊びで来てるやつは別の船に乗ってくれ! オレの船に積んであるライフジャケットは10人分。10人より1人でも多かったら出航しないぞ!」。皆が無言で探り合いをするような凍り付いた空気が支配する。やがて数人が不満そうな表情で船を降り、船長はブツブツ言いながらエンジンを勢い良くふかす。船は海へとすべり出した。

大海原へ
船長の不機嫌なブツブツは、港を離れるに従い機嫌良好に変わり、いつしか陽気への分水嶺を越えたようだ。
船内に残った10人はサカ船長と助手のフランキー君、僕とミズホさん、そしてコンパス・テレビ取材班の6人だ。穏やかで大きな風景に乗船者の緊張もいつしかほぐれ、少しずつ他愛のない会話が加速していく。同時に、突き刺すような強い日差しは痛いほどになり、うかつにも帽子とサングラスを忘れたことを深く後悔した。眼球の奥から急に溢れ出た涙が流れ落ちていった。そんな状態にもかかわらず、僕は目の前の風景に我を忘れた。

カヤックのような伝統的な船で、音もなく水面をパドリングする漁師たち。マーティン・デニーの名曲さながらの水辺のクワイエット・ヴィレッジ。それらは非現実めいた美しさを湛えていたものの、こうした人の手によるオブジェが途絶えてから広がる風景に、僕は言葉を失った。
点在する小岩の1つに接岸し、最初のテレビ収録が始まる。番組のホストを務めるカムガ君(「タンガ」のボーカル)が小岩の上から、にこやかにリポートを始めた。停止した船から、ふと水中へと視線を移すと、たくさんの細くてキラキラしたものが移動している。魚たちだ ! 海水は限りなく透明で、水底のサラサラした砂も手に取るようだ。それらをうっとり眺めていたら、「これ、写真を押さえた方がいいんじゃないですか?」とミズホさんに小声で耳打ちされた。我に返ってシャッターを切る。カシャ!カシャ!……「そのシャッター音、収録の邪魔になりませんか?」……彼女の言う通りだ。
収録が終わると、カムガ君はおもむろに小岩から海に飛び込み、長い手足で軽やかに水を切る。そう言えば、まだ海に足を浸してさえいなかった。ちょっと浸してみようかな、と足を伸ばしかけた時、「おーい、ここにはサメがいるぞー!」とサカ船長が叫んだ。カムガ君はあわてて船縁からよじ上り、目を見開いたまま、へたり込んでしまった。数秒の沈黙の後、くす玉を割るようにどっとわき起こる笑い声。サカ船長の冗談だったのだ。全員の緊張が一気にほぐれた頃合いを見て、船長は片手に持ったクラッカーを握りつぶし、砕いた破片を海面にパラパラと撒く。すると、その海面は、みるみる膨らみ、魚たちによるシンクロナイズド・スイミングのような群舞が始まった。優雅に弧を描きながら水面をついばむ。ひと段落してからも、海中でゆらゆらと漂い、そこから動こうとするそぶりもない。船は魚たちに見送られ、再びエンジンのうなりを上げた。
ワヤッグ群島
船は点在する小島の間を抜け、広い海原をしばらくすべるように進み、再び小島の集まった海域へと侵入する。相変わらず容赦なく降り注ぐ直射日光と、どこまで進んでも穏やかな水面は、経過する時間の感覚を無効にした。僕にはその日、腕時計の文字盤すら確かめた記憶がない。船は進んでいるようでもあり、あるいは風景そのものがこちらへ向かっているようにも感じられた。
時間や速度といった現代社会を司る基準も、ここでは曖昧で抽象的な座標にすぎない。カバンの中の携帯はずっと圏外のままだし、財布の中のお金を何かと交換する場所もない。成り行きに身を任せるほかない……そう思ったら、なぜかスッと気持ちが自由になった。

いつしか船はワイゲオ島の西をぐるりと北上し、ワヤッグ群島へと到達した。船はその島影の手前でいったん停止し、撮影クルーは屋根によじ上ってカメラを構えた。ゆっくりと加速する船の前方の小島が、遠近感が歪んだように、みるみる大きく迫ってくる。その岩の固まりにはアーチがうがたれており、船はそこへと躊躇なく向かっていた。アーチの幅は見かけよりも狭く、じょうごに注がれた液体のように、水流は徐々に強くなる。その流れに逆らうことなく、船はアーチをくぐろうとしていた。アーチの両側は、船の側面からでも手が届きそうなほど近い。サカ船長はそれでも緊張したそぶりも見せず、巧みにボートを操る。岩肌は長年の浸食にさらされた、遠い昔のサンゴたちの名残りだ。この風景を作り出すために、どれだけの年月と世代が積み重ねられたのだろう? われわれの祖先の誰かが初めてここを訪れた時にも、その風景は今とさほど変わらなかったはずだ。その遠い風景の中に、僕たちはいる。そんな歴史のトンネルをゆっくりくぐり抜けると、船の後方から引っ張られるような風が追いかけてきた。その風をやり過ごし、再び進路をアーチへと向けた船は、今度は多少、速度を上げて、トンネルをくぐり、先ほどの所へ戻ってきた。鏡のあっち側、あるいは極性の異なる世界へ行って戻って来たような、そんな安堵感に全員が包まれていた。

船が進む先には小島が密集していた。その風景は、熱帯にもかかわらず、教科書の写真で見たフィヨルドを連想させた。アクリル版のようにフラットな海。巨大なブイのように互い違いに並びつつ航路を誘う、無数の静かな島々。そのブイをいくつか抜けた先に唐突に現れたのは、まるで海賊船のような船。その先に、鉄の質感を強く感じさせる、もう一回り大きな船があり、後部甲板には、ヘリコプターまで止まっている。
ミズホさんは冷静にササッと、諜報員のように素早くノートに何やら記入している。その様子が誰かに似ているとずっと気になっていたのだが、今、思い出した。「マルサの女」の宮本信子だ。
「この群島の中で公式に登れるのは『ピンディト山』だけです。ただ、そちらは今日、入山者で混み合っているので登れません。そこで、われわれは、一般の人が入山しない、しかし、テレビ・クルーなどが登ることの多い、通称『第2山』へ向かうことになりました。サカ船長によると、その風景はピンディト山より、さらに美しいそうです」
僕が風景に見とれている間に、マルサの女はサカ船長から山の概要と見取り図を聞き出して、しっかりノートにしたためていたのだ。

船はさらに進み、茶碗をひっくり返したような形の切り立った岩山の1つに近づいて行く。見たところ、どこにも、そこに入る「きっかけ」になりそうな湾も浜もない。しかし、船はその側面に接近したかと思うと、助手のフランキー君が素早く海中にブイを投げ入れた。と、その足で側面の岩肌へひょいと飛び移り、船首のロープをするすると引き寄せ、それを岩肌にしがみ付いた頑丈そうな木の幹に巻き付けた。まさか、と思ったが、そこが上陸地点だった。多少、遠慮したいような気分ではあったが、早くもマルサの女は船首から岩肌の1点に足をかけ、フランキー君が差し出す手の助けも借りず、あっさりと岩肌をよじ上りつつあった。しかもサカ船長は、彼女のさらに上の地点から、こちらを余裕の表情で睥睨しているではないか!
撮影隊の面々も、やはり手慣れた様子で岩肌に飛び移ったかと思うと、船首から重そうな機材を受け渡ししている。その1人が背中に大きなカメラを担ぎ、こちらへ手招きした。どうやら、僕が恐る恐る島に飛び移り、急峻な岩肌を登る様子を撮影しよう、ということらしい。僕なら芝居などせずとも、ヘッピリ腰で、その恐怖を表現できる。まさに、うってつけの被写体だ。フランキー君の手をしっかり握りつつも、まるでサーカスの新入り犬が直立歩行の訓練をするような頼りなさで、僕はなんとか船首から岩肌に片足をかけ、しばし恐怖に立ち止まりつつも、なんとか島に上陸した。
「岩がとがってますから、手を切らないように気を付けて登ってくださいねー」というマルサの声をはるか頭上に聞きながら、新入り犬は四つ足の匍匐前進で、じりじりと焼けるような岩肌を、背筋を冷やしつつ登っていった。
天の浮橋
やがて中腹の台座にたどり着き、座り込むと、汗が吹き出してきた。汗をぬぐいながら耳を澄ませたが、不思議なほど音が聞こえない。海の音も、人の話し声も、動物の気配も。目の前の穏やかな海は長い年月を湛えたまま、ずっと小休止をしているようだ。この岩山が、堆積した珊瑚虫の石化したものであることを思い出す。その気の遠くなるような時間を手のひらに感じながら目を閉じると、少しずつ音が戻って来た。誰かが草を踏みしめる音や、鳥が羽ばたきながら「フュー、フュー」と喉笛を鳴らす音。上の方から聞こえてきたサカ船長の声に促され、ようやく重い腰を上げた。
先ほどよりは幾分、軽くなった足取りで、珊瑚の山を登る。時折「ビューゥ!」と吹き抜ける風が背中に心地良い。しばらくして「ウワァァァァ」というミズホさんの声が聞こえた。間もなく、その声のした場所にたどり着くや、自分の口からも「ウワァァァァ」という声が流れ出した。

鏡のように穏やかな海面と点在する島々。周囲360度どこを見渡しても完璧な風景には、人間の手が加えられたらしい痕跡が、まるで見当たらなかった。
しばらくして、われわれがやや落ち着きを取り戻したころ、サカ船長はやおら頑丈そうな木の枝に腰掛け、話しかけても半ば眠っているような様子で返事もしない。薄目で向こう側の風景をボンヤリ眺めながら、その充実感に身を委ねているようだ。しばらくすると撮影隊も頂上へたどり着いたが、船長は彼らにもまったく反応しない。きっと、この木の枝が、彼の特等席なのだろう。心許なく見える枝の太さだが、船長の体はしっかりとそこでバランスを保ち、まるでハンモックに揺られているように心地良さそうだ。そして一陣の風が吹き抜けると、薄目を開いてニヤッとする。

それで(イザナギ、イザナミの)お二人は、さっそく天の浮橋という、雲の中に浮かんでいる橋の上へお出ましになって、いただいた矛でもって、下のとろとろしているところをかきまわして、さっとお引きあげになりますと、その矛の刃先についた塩水が、ぽたぽたと下へおちて、それが固まって一つの小さな島になりました
鈴木三重吉『古事記物語』
イザナギとイザナミが原初の海をかきまわし出来上がった島々は、きっとこんなだったろうな、と想像した。そして今や、この世を住処とするイザナギは、時折、サカ船長の頑健な体躯を借りて島々を巡り、驕れる全能感に支配された人間に、人間の手の加えられていないパラダイスを見せつける。そして彼らが原初の風景に打たれ、ポカーンと口を開ける様子を確認すると、この天の浮橋のような木の枝に、満足そうに身を横たえるのだ。
しばらくすると、そんな風景からは10万年分ほど場違いな、バタバタという音が近づいてきた。先ほど通り過ぎた船から飛んで来たヘリコプターが、しきりにこの近辺の島々を旋回している。サカ船長は木の枝から降りると大きく手を振り、「おーい、おーい」と、とびきり大きな声と笑顔で呼びかけた。「うるさいぞー、さっさと帰れー!」。