「好きなインドネシアの本」は、挙げ始めるとキリがないので、まずは「インドネシアとの出会い」に絞って3冊を選んだ。
最初の1冊は、子供のころに読んだ『星の牧場』。モミイチという青年がツキスミという名の馬とともに戦争へ行き、インドシナ半島、マニラ、スマトラ、アンボンなどを転戦して、終戦後に山の牧場へと帰って来る。帰って来たモミイチは「頭がおかしく」なっていて、記憶をなくし、しょっちゅう、ツキスミの蹄の音の幻聴が聞こえるようになる。
モミイチは山の牧場で仕事をするうち、「ジプシー」たちに出会う。彼らは蜂飼いや道具作りをしながら山の中で自由に暮らし、バザールの夏まつりで演奏するオーケストラの練習をしていた。モミイチは彼らと親しくなり、自ら鈴を作り、オーケストラの練習にも参加する。しかし、山をさまよい歩くモミイチを心配した牧場の主人が山へ行くことを禁じ、モミイチはバザールの夏祭りに行くことはできなかった。夏の終わり、モミイチはジプシーたちを探して、山の中をあてどなくさまよう。
これを読んだのは小学5年生ぐらいだっただろうか。音楽とともに自由に生きるジプシーの暮らしに夢中になった。ニジ色のミネラルを飲み、ピザを食べ、オーケストラを演奏し、しゃれたジプシーたちなのだ。しかし、これらすべて、「頭がおかしく」なったモミイチの幻想ではないのか、とも思わせる作りで、どこまでが現実でどこまでが幻想かわからないまま、モミイチがツキスミと再会して話は終わる。
この幻惑的な物語の中で、通奏低音のように流れるのが、マニラ、アンボンといった「南洋」の情景だ。ジプシーたちの飲み物「ニジ色のミネラル」が出て来たら、モミイチがスラバヤで見た「インドネシア人がレモナードとよんでいる色のついた飲物」の話になる。このように、繰り返し、物語は南洋の情景へと立ち戻る。作者の庄野英二は太平洋戦争中に中国、ジャワを転戦し、マレーで終戦を迎える。『星の牧場』で描かれた「南洋」の風景は現実味を失って夢のように美しく、子供心に異国情緒そのもののように思えた。
その中でも特に、記憶に刻み込まれたのが、アンボンでモミイチが聞いた「アンコロン」の描写だ。
「アンコロンはひとつだけでもうつくしいが、それをふたつも三つも、もっともっといっしょにあわせて鳴らすと竹の音と音がひびきあって、夜あけの森のなかの小鳥のコーラスのようにうつくしかった。……すみきった竹のひびきは、きくひとのこころの奥深くしみとおっていくようであった」
アンコロンとは、一体どんな音色なのか。アンコロンの作りや音色が描写された第16章を繰り返し読むが、どう考えても想像がつかなかった(「アンコロンをふく」とか「アンコロンひとつでメロディをかなでることができた」など、戸惑わせる描写もある)。
インドネシアに来てから、もちろんアンクロンの音は聞くことができたが、どうやっても『星の牧場』の「アンコロン」とは1つにならない。『星の牧場』のアンコロンは、モミイチの聞いた幻聴のごとく、私の頭の中で、今でも見えない音を鳴らし続けている。

続編の『足跡』と『ガラスの家』は、ジャカルタに来てから購入
『星の牧場』は「インドネシア」とも自覚しない、インドネシアとの出会いだった。インドネシアが物語の中心というわけでもない。もう少し自覚的な出会いとしては、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの『人間の大地』が挙げられる。大学2年の時にフィリピンへ行き、フィリピンが好きになった私は、フィリピン文学の研究者になろうと志し、タガログ語を勉強しながらフィリピン文学を読みあさっていた。しかし、フィリピン文学を読みながらも、どうもピンと来ないと思っていた私に、「これは読んだ方がいいですよ」とプラムディヤを薦めたのは、フィリピン史研究の第一人者である池端雪浦先生だった。
『人間の大地』を読んだ時の衝撃は忘れられない。一気に読んだ。途轍もなく面白かった。「負けた」と思った。
オランダ植民地支配という不正を描く『人間の大地』と、フィリピンでスペイン植民地支配の残虐さを描いたホセ・リサールの『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブステリスモ』。ホセ・リサールの小説の方が、植民地支配の残虐さが微に入り細に入り描かれ、読むのが耐えられなくなるほどだ。しかし、物語として圧倒的に面白いのは『人間の大地』の方だ。そして、大きく人の心を動かす。ホセ・リサールの名著を否定するわけではまったくないが、『人間の大地』は物語の力を見せつける作品だ。
プラムディヤとの出会いは私にとって、頭を思いっきり殴るように、楔を打ち込むように、それまでまったく知らなかった「インドネシア」の奥深さとすごさを突き付けるものだった。
東南アジアの文学はほかにもいろいろ読み進めていたので、そこから俯瞰しても、もし東南アジアからノーベル文学賞作家が出るとしたら絶対にプラムディヤだ、と思っていた。それが実現しないままプラムディヤが亡くなってしまったのは、非常に残念だ。
生前のプラムディヤには、ジャカルタに来て早々、ボゴールのご自宅でお会いする機会があった。温和な方だったが、耳が遠くなっていて、私のインドネシア語も不十分だったので、ろくな話はできなかった。しかし、『人間の大地』の著者に会えてうれしく、光栄だった。
インドネシアに来て大分経ったころ、「もうそろそろいけるのではないか」とインドネシア語の原書『Bumi Manusia』を入手した。しかし、まったく歯が立たなかった。押川典昭先生の名訳により、日本語で読めるのはなんとありがたいことか、と、改めて感じた。

「うるわしのインドネシア」の風景画。なぜこの絵が描かれるようになったのか、考察する
フィリピンからインドネシアへ来る機内で読み始めた、インドネシア関連本の最初の1冊は『カルティニの風景』。なぜこれを選んだのか、よく覚えていないが、プラムディヤの本がめこんから出版されていたので、同じめこん刊のこの本が目に留まったのだと思う。「インドネシアの心を辿るはるかな旅路」という帯の文句にそそられた。
カルティニのことなど何も知らずに読み始めたところ、しょっぱなから面食らった。第1ページ目から、こんな具合。
「若い時にアジアの国々で過ごした若者たちの中には、アジアの熱と光にあぶられその後の人生をその余熱と余熱の照り返しで、まるで余生を過ごすかのように思いなして過ごしている者に出会うことがある。……熱気と湿気の夏の季節になると、居ながらにしてアジアに包まれ、体中の細胞が活気づく」。ほかにも、「キャンパスを通り抜けてあれこれの学部や研究所を尋ね歩くことは、ここでは、花の香草の香にむせびながら熱帯の日差しに染め上げられることにほかならない」など、文学的で情緒的で、強いノスタルジーとインドネシア愛にあふれた言葉が並ぶ。
カルティニについての研究書だろう、と思っていたので「なんじゃ、こりゃあ!」と思いつつ、さらに、あまりにもインドネシアの知識が乏しいのでカルティニについての論考もよくわからないままに読み終えた。
しかし、改めて読み返すと、「名著」の一言だ。時を経てもまったく色あせない、まぎれもない名著。ジョグジャカルタで過ごした自らの青春の日々、下宿屋にかかっていた「うるわしのインドネシア」の絵、そしてカルティニの業績とは何だったのかという考察、それらを見事にリンクさせて1つの大きな絵にまとめ上げ、「インドネシア人の心の風景」にまで導く。型破りなように見えて、これこそが研究であり、私にとっては記事を書くことの理想的なあり方ではないか、と思った。個人的な思いをぶつけてもいい。いやむしろ、情熱のない記事、記者の伝えたいという思いのない記事は無価値。それを教えてくれた本だった。
自覚的に読んだ初めてのインドネシア本、という思い出もあり、今でもこの本のページをめくると、こちらが思わず引いてしまうほどの土屋先生の熱情とインドネシアへの思いが、ひりひりするような熱さで、私にぶつかってくる。
庄野英二『星の牧場』(理論社、1963)
プラムディヤ・アナンタ・トゥール著、押川典昭訳『人間の大地 上・下』(めこん、1986)
土屋健治『カルティニの風景』(めこん、1991)
【特集】私の好きなインドネシアの本
仲川遥香『ガパパ!』 インドネシア在住者のバイブル。
旅、暮らし、食をテーマの5冊。