ロンボク島で2020年に急逝した、画家の飯塚正彦さん。1999年からロンボク島に住み、ロンボクの人や自然を主な題材にした、明るくユーモラスな絵を描き続けていました。その知られざる作品と、多くの人に愛された人となりをご紹介します。(文と写真・池田華子)
飯塚正彦(いいづか・まさひこ)さん
神奈川県伊勢原市出身。多摩美術大卒。日本の版画工房で働いた後、世界放浪し、インドネシアへ。1999年にロンボク島へ移住。サリさんと結婚し3女をもうける。ロンボク島の人や自然を題材にした絵を多数制作。2020年7月10日、同島で急逝。53歳。
絵の中の道
手前から奥へ、道が延びている。手前の濃い影の中にはハイビスカスと青い花が咲き、バナナの木がのびやかに葉を広げている。暗い小径はゆったりと曲がりくねり、日に照らされた高床式の家へと続いている。熱帯だからこその、光の強さと影の濃さ。暗い影の中から光の下へと出る道を目で追っていると、「未来は明るいよ」と言われているような気がする。
絵のタイトルは「庭」、作者は飯塚正彦さん。ロンボク島で暮らし、ロンボクの風物や人をキャンバスに描いていた。2020年7月10日に同島で急死。53歳だった。
飯塚さんは多摩美術大で版画を専攻し、卒業後は数年間、版画工房で働いていた。その後、仕事を辞めて世界放浪中にインドネシアを訪れた。そしてロンボク島で、妻となるサリさんに出会う。10年余りの交際を経て結婚し、1999年にロンボク島へ移り住んだ。長女亜弓さんら3人の子供が生まれる中、マタラム市内にアトリエを構え、ロンボクの自然や人を中心に絵を描いていた。
白浜に波が寄せる緑の島。荒波に揉まれながら小さな漁船を操って釣りをする人。華やかな衣装でバリダンスを踊る少女。にぎやかなパサール(市場)。疾走するロンボク名物のチドモ(馬車)。
ロンボク島マタラムの自宅を訪れると、リビング、仕事部屋、家の横の小さな店に、完成した絵がぎっしりと詰まっていた。整理されている物だけでも100点余り。未整理の物も合わせると、全部で何点あるかは「わからない」と、飯塚さんの父の成美さん(86)。成美さんはサリさん(47)ら家族と共にロンボク島で暮らし続けている。飯塚さんは自分の絵を「遺産として残すから、自分の死後には売ってもいい」とサリさんに話していたと言う。
飯塚さんの仕事部屋には、筆や絵の具がそのままに、床には描きかけの絵が何枚も重ねて立てかけられていた。そのうちの一枚、川の両岸に熱帯の植物が生い茂る絵は大作。岸には花が咲き乱れ、ヤシやバナナが勢い良く茂り、白く渦巻く川の流れは速い。岸辺をよく見ると、木々の間に隠れるようにして、赤い屋根の家が立っている。熱帯の自然、そして、そこに生きる人の生命力を感じさせる。
まだ下描き途中の「北斎」的な大波の絵は、鉛筆の下絵の上に、黒色で細かく点描中だ。波の上下に、牛、馬、猿、猫がいて、それぞれがバナナの葉をボードにしてサーフィンしている。なんともユーモラスで、かわいい絵だ。こちらも、かなりの大作。完成していれば、と思わされる。
まずは小さい絵を描き、出来上がった絵が気に入ったら、同じ構図で、大きい絵をもう一枚描く。「大きい絵は、お父さんが『気に入った』というしるし」と、長女の亜弓さん(22)。何度も手を入れながら、何枚も同時に平行して描く。「こっちの絵を描いて、あまりうまくいかないと、また別の絵に移って、というように、あれこれ描いていた」と亜弓さんは話す。
父とはあまり絵の話をしなかったと言うが、飯塚さんが亜弓さんに語った一つの秘密とは「(自分の)絵の中には『視線の道』があるんだよ」ということ。象が水を噴き上げている絵は、下から上へ。海へと続いているバナナ並木の絵は、手前から奥へ。絵を見る人の視線は自然に動き、ある決まった方向で絵の中をたどっていく。「こうやって視線を動かして見ていると、見飽きない。見る人の目を長く絵にとどめておくことができるんだ」と語っていたと言う。
写生的な絵もあるが、ユーモアあふれるマンガチックな絵が多い。動物たちのヨガやサーフィン、バリ衣装のモナリザ、海に浮かぶ「クジラ・ホテル」など。かと思えば、ヤシの熱帯林の上を取り巻く雲から秀峰リンジャニ山が顔を出し、その噴煙がガルーダの尾になっていく、という幻想的な絵も。
「油絵は性に合わない」と語り、永続性があり、かつ、細密に描きやすいアクリル画を選んだ。画材は日本へ帰国した時に大量に買って来たり、バリ島で調達していた。
バリの細密画に似て、細部に至るまで描き込まれているのが特徴だ。絵の具が盛り上がった細かい点描は「スポッティング」という技法。「斜めから見ると、絵がキラキラする。光の反射を表したかったんでしょう」と成美さん。
飯塚さんの作品の中で特に人気だったのは、ササック伝統村や陶器作りの村など、ロンボク各地の名所や特産品を細々と描き込んだ、観光案内のようなロンボク島の絵地図。絵以外にも、ポストカードやTシャツ、粘土細工の起き上がりこぼしなども作り、ロンボクやインドネシアのお土産として売った。オーストラリア人や日本人が、ギャラリーまで絵を買いに来ることもあった。売れると、また描く。
自分の絵を売ることには無精で、「『買いに来る人がいれば売る』という程度。値段も、相手の懐具合と自分の懐具合で、適当に決めていた」と成美さんは語る。
成美さんの父、正一(まさいつ)さんは、非常に絵が上手な人だった。正彦さんは祖父の絵を見て、絵に興味を持つようになったらしい。名前の漢字「正」と共に、絵に対する思いを引き継いだようだ。
父・正一さんの絵を子供心に「うまいな」と思いながら見ていたと言う成美さんは、息子の絵に対する点が辛い。「学校の文化祭で、正彦が大きな背景画を描いたのだけど、それを見て、才能のなさにがっくり。しかし、努力して、ここまで描けるようになった」と、けなしているような、褒めているような評価をする。
絵のことで大げんかしたこともある。正彦さんが描いていた女の子の顔が「(モデルに)ちょっと似てない」と成美さんが言ったら、正彦さんが「出来上がってから言え」と怒り、大げんかに。それからは、「向こうも『余計なことを言うなよ』という感じ。こっちも警戒して、言わないように。絵の話はあまりしなくなった」と成美さんは笑う。
そうは言いつつ、残された息子の絵を趣味のカメラで撮影してファイルに整理したり、「この波の表現は、北斎の波を自分なりに描いたものでしょう。ゴーギャン、ゴッホ、北斎が好きだった」と解説してくれたり、成美さんは正彦さんの絵の大きな理解者だ。
ロンボクで見つかった「住処」
なぜロンボク島だったのか。成美さんの話では、正彦さんはヨーロッパなど世界中を放浪して「自分の住処(すみか)」を探す中で、インドネシアが気に入った。まずはジャカルタに入り、東へと向かった。しかし、ロンボクを過ぎると、「自分に合わない」「いかにもダメだ」と引き返す。「バリかロンボクのどちらか、だったが、『バリは開けすぎている。ロンボクの方が人情が残っている』と、ロンボクに決めたようだ」と成美さんは話す。
サリさんとの出会いも大きかったのだろう。両親がバリ出身でロンボク生まれのサリさんとは、1982年にサリさんが働いていたマタラムの時計店で知り合った。飯塚さんが日本へ帰ってから、文通が始まった。飯塚さんは手紙で「ロンボクは楽しかった。皆、優しかった」とインドネシア語で書き送って来たという。86年から交際が始まり、99年に結婚した。
こうして、飯塚さんのロンボク島での生活が始まった。亜弓さんはじめ女の子3人が生まれ、孫の顔を見に来た成美さんも、2001年からロンボク島に住み始めた。
飯塚さんの日課は、朝、サリさんと一緒にパサールへ行く。コーヒーと朝食。絵を描く。成美さんと自分の分の昼食と夕食を作る(その他の家族の分は、サリさん)。その合間に絵を描き、子供の送り迎え。夜は2時、3時ごろまで、寝ずに描いていることもあった。
絵を描く時には、一人で仕事部屋にこもる。亜弓さんが何かの用事でドアを開けると、それだけの音でもびっくりするぐらい、集中して描いていた。
パサールへ行く時や、外へ遊びに行く時は、いつもスケッチブックを持参。子供たちが遊んでいる時も、自分は絵を描いていることが多かった。しかし、子煩悩で、子供が大好き。外出先ではよく、子供たちに「切り絵」を披露した。用意する紙は、普通のコピー用紙だ。はさみで切っていくと、あら不思議、次々に蝶や鳥が生まれる。これが大人気で、飯塚さんの周りにはいつも人だかりが出来た。
「お父さんの姿が見えなくなると、子供たちが集まっている所を探す。その人だかりの中に、大体、お父さんはいた」と亜弓さん。
飯塚さんが子供の学習用に手作りした「かるた」は傑作で、飯塚さんの真骨頂と思われる。「アルファベット」と「あいうえお」の2種類があり、アルファベットのかるたは、例えば「S」なら「Sungai」(川)を泳ぐ「Sapi」(牛)といった、ユーモラス、かつ、完成された世界観の絵が一枚ずつ描かれている。亜弓さんらは、このかるたで遊びながら、「あいうえお」や「アルファベット」を覚えた。
「一緒にいられるのはここまで」
その死は突然だった。誰もがまったく予想もしていなかった急死。
2020年7月10日。朝はいつものようにパサールへ行き、昼にはマタラムのショッピングモールで友人と会っていた。帰宅後の夕方に体調が悪くなり、午後6時ごろに嘔吐。近所の人に車を頼んで、サリさんが病院へ連れて行った。
飯塚さんは車から降りる時に、立ち上がれずに倒れてしまった。車椅子で救急入口に向かう時に「サリ、サリ」と呼び、意識が混濁しながら、「病院まで連れて来てくれてありがとう。一緒にいられるのはここまで(Sampai di sini bisa bersama Anda)」。こう言った後に気を失い、意識は戻らないまま、午後10時に亡くなった。
医師の話では、死因は敗血症。詳しく調べるには司法解剖の必要があると言われたが、サリさんは断った。ヒンドゥーの慣習に従い、火葬後、灰は海に撒かれた。
亡くなってもう2年半になるが、サリさんは今でも飯塚さんの思い出を語りながら「本当にいい人だった」と涙が止まらない。成美さんは「気持ちのあったかい、心底、優しい人。ここの人を愛していた」と語る。
亜弓さんの見た、父・正彦さんは、「言葉よりも行動の人」。時間があればいつも絵を描いている寡黙な人だったが、その愛情は、言葉よりも行動で示されていた。
亜弓さんが就職した時、初月給で両親に何かプレゼントしたいと思い、父に「何が欲しい?」と聞くと「何も要らない」と言う。亜弓さんが「何か言ってくれないと困る」と食い下がると、ようやく「アイスクリームが欲しい」。そこで、亜弓さんはマグナムの棒アイス1個を買い、飯塚さんにプレゼントした。そのアイスの棒は、最後まで大事に、飯塚さんの財布の中に収められていた。
「世界はYes」
飯塚さんは、ロンボク在留邦人の間では、よく知られた存在だった。夫がロンボク出身の池本円さんは、2015年の帰郷の際に、飯塚さんのアトリエへ行って、絵を何枚か購入した。「ディテールを見るのが楽しい。良いバティックを眺めているよう」と語る。
ロンボク在住の岡本みどりさんは「飯塚さんは『緩衝材』のようで、子供からも大人からも人気だった」と振り返る。
岡本さんの娘のプトリ・あずみさんが「キャンバスに絵を描いてみたい」と言うので、飯塚さんに相談したことがある。飯塚さんは「キャンバスは作ればいい」と、その作り方から教えてくれた。飯塚さんが言ったのは「お母さん、教えんでいい。上手になるように、とかではなく、描きたいように描かせてあげたらいいと思います」。プトリさんは生まれて初めてキャンバスに絵を描き、大変満足したそうだ。
岡本さんは飯塚さんの絵を「カキリマひとつにも愛情がある。あったかい感じで、暗い絵がない。面白いのも、風刺を効かせたものも、どれも明るい。ロンボクの濃さがよく出ている」と語る。
飯塚さんは「僕は『Yes』っていう絵を描きたいんだ」と語っていたと言う。「絵を見てくださる方や、いろんな環境や境遇にいる人に、『世界はYesなんだよ』って伝えたい」。
「唐辛子島を愛す」 飯塚正彦さんオンライン作品展
「唐辛子島」との別名のあるロンボク島。「+62」選、飯塚正彦さんのオンライン作品展を開催します。
作品へのお問い合わせは、WA:0878-5921-1719(亜弓さん、日本語可)まで。
作品の一部はインスタグラム@iizuka_art でも見られます。