Pengepungan di Bukit Duri
ジャカルタ暴動から27年目を迎える直前に封切られた本作では、再び大暴動が起きてしまう近未来が描かれる。社会不安が煽られる中、暴力に満ちた高校で絶体絶命の危険に包囲されてしまう高校教師。狂気に満ちた世界から発せられるメッセージとは?
文と写真・横山裕一
今から2年後の2027年という直近の未来を舞台にした、鬼才、ジョコ・アンワル監督の新作アクションスリラー。近年同監督が手掛け続けたホラー作品ではないが、それ以上に残忍なまでの暴力シーンに恐怖感も味わえる。また現代インドネシアがたどった負の歴史に対する認識喚起も込められた見応え十分な作品。
タイトルは直訳すると「トゲある丘で囲まれて」だが、トゲ(DURI)は西ジャカルタの地名で作品舞台の高校名と掛けられている。また、トゲは先鋭化し狂気に満ちた暴力をも象徴していて、タイトルには「狂気に包囲された絶体絶命」の意味が込められている。
物語は2027年、ジャカルタの華人街で再び大規模な暴動が起きる。華人を標的にした暴力や略奪が相次いで社会不安は高潮に達していた。一方、華人街近くにある西ジャカルタの高校では華人のエドウィンが教師として採用される。彼には姉から依頼された行方不明の甥をジャカルタで探すという個人的な目的もあった。
エドウィンが勤務した学校は問題児が集まり荒んでいて、担任として受け持ったクラスには凶暴なジェフリを中心とした不良グループがいた。授業で注意を促すエドウィンに対し、華人蔑視を含めて敵意をあらわにするジェフリ。二人の関係は悪化していく。ある日、エドウィンと同僚教師、さらにエドウィンの作業を手伝っていた生徒2人の4人は凶器を持ったジェフリら不良グループの襲撃を受け、逃げ込んだ体育館に閉じ込められてしまう。時に暴動の範囲は広がり、高校へと及ぼうとしていた。狂気と暴力に包囲されたエドウィンらは命の危機に直面する……。
本作品では1998年5月に起きたジャカルタ大暴動や華人差別などの問題に対して、再発防止も含めた現代社会における警告がテーマとして込められている。物語は冒頭、2009年にジャカルタ華人街で暴動が起き、当時中学生だったエドウィンが巻き込まれるシーンから始まる。本作品ではなぜ実際には起きていない2009年と直近の未来である2027年に大暴動を発生させているのだろうか?
以下は筆者の見解ではあるが、本作品は特にミレニアル世代後期を含めたZ世代を対象に作られているためであるようだ。Z世代は1990年代半ば以降に出生した世代で、現在30歳以下である。インドネシアでは全人口の約30%を占めていて、まさに社会の中心を担う世代だ。しかしZ世代は1998年の大暴動当時は10歳に満たない人々で、記憶も定かでない時期である。たとえ知識として大暴動があったことを後に知っていても、実感の湧かない過去でもある。このためジョコ・アンワル監督は大暴動の発生を2009年に設定することで、鑑賞者であるZ世代が記憶も自我も確かである中学生の頃の出来事として擬似体験を狙ったものと思われる。
近未来である2027年に再度大暴動が発生することについては、大暴動を実感していない、知らない世代であるZ世代が全人口の3分の1近くを占める現在、一歩間違えれば同じ過ち、大暴動が再度起きかねない状況にあることを示唆しているといえそうだ。思えばジャカルタ大暴動から27年。すでに四半世紀以上前の過去の出来事となってしまい、知らない世代に実態を伴って語り継ぐ時期に来ているといえる。
作品で興味深いのは、2年後の世界に現在のMRTとみられる地下鉄や地下街のシーンが度々登場することだ。車両内や地下道はスプレーのペンキで落書きし尽くされ、ニューヨークのスラム街を想起させる世界を作り上げている。流石に2年後にここまで荒んだ風景にはならないだろうと思えるが、かつても1998年の大暴動以前に事態があそこまで急変するとは多くの者が予測できなかったことを考えると、あり得ないことではないのかもしれない。
劇中、閉じ込められた仲間の身を守ろうと奮戦するエドウィン役を演じるモーガン・ウイと、狂気に満ちた高校生を演じるオマラ・エステグラルの迫真の演技は見どころの一つでもある。2009年の暴動と2027年との主人公をめぐる関係性にも工夫が仕掛けられていて、終盤、明らかになることがある点も見逃したくないところだ。
迫力ある暴力アクションシーンが続くなかに込められたメッセージを是非、劇場で受け止めていただきたい。
