【『彷徨』訳者・太田りべかさんロング・インタビュー  <前編>】シドニーでの分かれ道を真っ直ぐ行っていたら、私はインドネシアと関わることはなかった

【『彷徨』訳者・太田りべかさんロング・インタビュー <前編>】シドニーでの分かれ道を真っ直ぐ行っていたら、私はインドネシアと関わることはなかった

インドネシアの小説『彷徨 あなたが選ぶ赤い靴の冒険』(インタン・パラマディタ著、太田りべか訳)は、悪魔に赤い靴をもらったインドネシア人の女性(あなた)が、アメリカやヨーロッパで放浪する話。あちこちで「あなたならどうする?」という分かれ道に立たされ、読者は自分で道を選び、物語の主人公となってさまよう。この本を出版した春秋社が、過去一年で最も優れた翻訳書を刊行した出版社に贈られる、2026年度「日本翻訳出版文化賞」に決まった。受賞を記念し、翻訳者の太田りべかさんにロング・インタビューした。『彷徨』との出会い、『彷徨』さながらのりべかさん自身の「リアル分かれ道」、日本で翻訳が立て続けに出版されているインドネシア文学の現状などについて聞いた。(文・池田華子、写真は太田りべかさん提供)

『彷徨』の原書を手にする太田りべかさん
『彷徨』の原書を手にする太田りべかさん。スマランの自宅で

太田りべか(おおた・りべか)
日本語←→インドネシア語翻訳者。村上春樹、川上未映子、吉本ばなな、谷崎潤一郎、森絵都の小説など日本の文芸作品のインドネシア語訳を手がける。また、インドネシアの文芸作品の日本への紹介も行っている。日本での既刊翻訳書は、エカ・クルニアワン『美は傷』、インタン・パラマディタ『彷徨 あなたが選ぶ赤い靴の冒険』(ともに春秋社「アジア文芸ライブラリー」刊)。1995年よりインドネシア在住。

とにかく、面白いと思ったら、訳す

━━受賞を聞いて、いかがでしたか?

 『美は傷』の方は、わりと反響があったんですけれども、『彷徨』の方はあんまり……「日本の人にはそんなに読まれてなかったのかな?」と思っていたので、正直言ってちょっと驚きましたね。

大きな反響のあった『美は傷』
『美は傷』は新風舎文庫から出版されたが、出版社の倒産で絶版。2024年に春秋社から新たに出版され、大きな反響を呼んだ

━━私も『美は傷』で受賞するのはすごくわかるけど……と思いました。『彷徨』も、もちろん面白いですが。

 どちらも私からしたら全力でお薦めしたい作品なので、賞をいただけたのは大変うれしいです。しかも、「インドネシアだから」評価されたわけではなく、翻訳書を評価していただいた、ということが、とてもうれしいと思いました。

 インドネシア文学が日本で何か受賞するといったら、押川典昭先生が訳されたプラムディヤ・アナンタ・トゥールの『人間の大地』など四部作(めこん)以来じゃないかな、という気がします(2007年度読売文学賞<研究・翻訳賞>)。ちょっとこれは、なかなか画期的かもしれない。

━━『彷徨』はいつごろ訳されたんですか?

 ちょうどコロナのころ(2020年)です。作者のインタンさんが「ウブド・ライターズ&リーダーズ・フェスティバル(Ubud Writers & Readers Festival)」に登壇されたんですが、その時、コロナだから、オンライン開催になったんですよ。それで「あ、うちでも見られる」と思って見て、それがすごく面白くて。

 ちょうど『彷徨』の英語版が出版された直後だったんですね。インタンさんと、インタンさんの作品の英訳を手掛けているティファニー・ツァオ(Tiffany Tsao)さんとの対談でした。「これは読まなきゃ」と思って取り寄せて読んだら、もうすごく面白くて。「ああ、これは訳さないと」と思って、こそこそと一人で訳していた、と。

━━インタンさんの作品を訳されたのは『彷徨』が初めてですか?

 だいぶ前なんですけど短編を読んだことがあって。『悪魔の奴隷集(Kumpulan Budak Setan)』というホラー短編アンソロジー。作者の一人であるエカ・クルニアワンさんが送ってくださって、その中にインタンさんの「アップル&ナイフ(Apple dan Pisau)」という一編があり、それがすごく面白かったんですよね。「この人、すごくいい小説を書くな」と思って注目はしていたんですが、それ以来、特にそんなに読んでいなかったんです。ウブドでのプログラムを見て、「あ、これ、確か『アップル&ナイフ』の人だな」「長編書いてたんだ!」と。

『悪魔の奴隷集』
「アップル&ナイフ」が収められている『悪魔の奴隷集』(グラメディア、2010年)

 だから、「アップル&ナイフ」も、こっそり翻訳してたんですよ。ただ、短編だし、どうするかな、と思って、そのままになって、そのまま忘れてたというか。だから、インタンさんの作品を訳すのは2本目ですけど、表に出せたのは『彷徨』が初めてです。

━━「アップル&ナイフ」はどういう所が面白かったんですか?

 すごく官能的で、ちょっとレズビアンっぽい描写もあるんですけども。女性から見た鋭さっていうか辛辣さみたいなのがあからさまに書かれている。クルアーンにもある話、ほかの伝説にもある昔話と絡めて、という感じなんですね。

 実は、インドネシアで出ているインタンさんの短編集に「アップル&ナイフ」は入ってないんですが、英語版が出た時はそれも入れて、しかも本のタイトルに採用されるんですね。だから、英語版のエディターにとっても、「アップル&ナイフ」は強い魅力を持った短編だったんだな、と思いました。

━━ホラー短編集を読んだり、「この人はいい」と目を付けて、一人で訳したり。やはり、いろいろとアンテナを張り巡らして、いろいろとやられているからこその受賞なんだな、と思いました。

 全部、たまたま読んだもの、という感じなんですけどね。

━━『美は傷』も『彷徨』も、そして「アップル&ナイフ」も、出版するかどうかも決まってないのに、いきなり訳しちゃう。それがすごいです。

 最近はさすがにちょっとやってないですが。以前はとにかく、面白いと思ったら、訳す。

『彷徨 あなたが選ぶ赤い靴の冒険』(春秋社、2025年)
『彷徨 あなたが選ぶ赤い靴の冒険』(春秋社、2025年)

━━『彷徨』の翻訳で難しかった点はどこでしょう?

 インタンさんはとにかくすごく博識な人で、いろんなネタが入っているんですよね。例えばガートルード・スタインの詩がちょっとだけ、とか、ブレヒトの戯曲とかですね。そういうのはできるだけ元を取りたいじゃないですか。そういうのを探したりするのが、ちょっと大変だった。探せばもっとあるんだろうな、私が気付いてなかった所もいろいろあるんだろう、と思いながら。

━━『彷徨』の好きな点はどこですか。

 「ゲームブック」形式でぽんぽんと飛んで行く、自分で道を選んで行く、という仕掛け自体も面白かったけれど、それぞれの一つひとつのエピソードにすごくリアルな所があって。ジャカルタに生きる若い女性としてのリアル、ですね。そういう所が非常に面白いな、と思ったんですね。あとは、「マリン・クンダン」とか「オズの魔法使い」、そういう昔話、おとぎ話なんかがうまく取り入れられている所。その物語そのままじゃなくて、すごくシニカルな視点から語り直している。

 『彷徨』だけではないんですが、インタンさんの作品は、女性の女性に対する批判的な目というか、辛辣さというか、なんかこう「格好つけない」って言うんですかね、「本音をずばっと言っている」、そういう所がすごく面白いなと思います。

━━インドネシアの作家の中で、そういうのは珍しいですか?

 そうですね。男性の作家が書くと、どうしても、女性が理想化されている、母親を描くとしたら理想的な母親像になってしまう、という所があるような気がするんですよね。なんとなく、印象として。

2025年11月初め、『彷徨』発売直後の東京・神保町の東京堂書店
東京・神保町の東京堂書店に出された『彷徨』の紹介文(2025年11月)

真っ直ぐ行くか、右へ回るか。リアルな分かれ道

━━りべかさんがインドネシアに関わることになった「分かれ道」について、話していただけますか。

 話すと長くなるんですが。学生時代にオーストラリアのシドニーでホームステイさせてもらったことがあって。ビルマ人とオーストラリア人の若いカップルだったんです。今は「ヘリテイジ」だ、ということで保存されているエリアなんですけど、すごくボロい長屋に住んでて、そこに泊めてもらったんですよ。トイレも外側に、別棟になっているし、なんか「すごい所だなぁ」と思ったけど、すごく面白くて、刺激的で、アジアにちょっと目が向いたのはその時からなんですね。

ホストファミリー宅で、小さな裏庭の隅にあったトイレ。扉になかなか良い言葉が書いてあった
ホストファミリー宅で、小さな裏庭の隅にあったトイレ。扉になかなかいい言葉が書いてあった

 それから何年か経って、またシドニーへ仕事で行けることになったんで、はがきを書いて出したんですよ。シドニーに着いたら電話がかかってきて、「実は引っ越したんだ、隣の通りに」「遊びにおいで」って言われて。最初はバイクで迎えに来てもらってバイクで行ったんだけど、次にまた「バーベキューするから遊びにおいで。もう来方わかるでしょ」って言われて、「ああ、電車で行くよ。駅から近いんで」って。

 それで、日曜日に電車から降りて歩いて行くと、道が分かれているんですよね。真っ直ぐ行くと、その人の今の家に行くんです。右に行くと、前に私が泊めてもらった古い家を通って、1ブロックだけ回って、その人の今の家に着くんですね。どっちにしようかな?と思って、「懐かしいし、こっちの回り道の方を通って行こうかな」と思って、右へ行ったんですよ。

 私が前に泊めてもらった家の前を通ると、そこに、私の夫になった人がいたわけです。彼はそのホストファミリーと友達で、私が最初にホストファミリーの家へ遊びに行った時も、ちょっとだけ遊びに来てたんです。私、インドネシア人に会うのは初めてで、インドネシア人の英語も初めて聞いて、もう何を言ってるのか全然わからなかったんです。ほんとに一言もわからなくて。

 「さかなっ、つりっ、さかなっ、つりっ」って、日本語でそれだけ言うんですよ。ああ、魚釣りが好きなんだ、あっそう……そういう感じで、「バイバイ」で別れたんですよ。本当なら、それで終わるはずだったんです。

 ところが、その次に遊びに行った時に、その古い家の前を通ったら、彼がちょうど絨毯を張ってたんですよ、家の戸を開けて。それで、ぱっと目が合ってしまって、「あ、ハロー」とか言って。そしたら、「ちょっとお昼、食べて行かない?」。「いや、私、ホストファミリーの人にお昼誘われてるから」って言ったんだけど、すごい強引に「ちょっとだけでいいから!」。それでちょっとだけ寄って、それから、ホストファミリーの所へ行ったんですよ。そしたら、彼も後からやって来て、なんか知らないけど、友達にならされた、というか。そこから腐れ縁が始まってしまって、今日(こんにち)に至る、というところなんですね。

 だから、あの時、私が右に行かずに真っ直ぐ行っていたら、その人と会うことは二度となかったと思うんですね。うちの夫になった男とは。

━━彼はオーストラリアで何をしていたんですか?

 中部ジャワ・ジュパラの人なんですが、ニュージーランドで学校に行って卒業して、オーストラリアに住み着いていたんです。タクシードライバーかなんかして、その日暮らしで、ふらふら生きてた人だったんです。

 住む所もあちこち移ってたみたいで「住む所がなくなった」って言うんで、私の元ホストファミリーが「おれ、家を買って移るから、あそこの貸家、家賃安いし、行ったら?」って紹介して、元ホストファミリーの家に移ったらしいんです。その時に私のはがきがそこに届いてしまったので、彼がホストファミリーに渡してくれたんです。

━━まさに、すごい分かれ道ですよね。

 あの時、右に回り道せずに、真っ直ぐ行っていたら、私はインドネシアと関わることはなかったんですよ。彼に二度と会うこともなかった。最初の「魚釣り」事件だけで終わったはずなんですよね。だからほんとに、あそこはリアル分かれ道で、今ここにいるのは、あそこで右に曲がったばかりに、っていう感じですね。

 あの時に真っ直ぐ行っていたら、今ごろ何してたかな、と思ったりもするけれども、もうやり直してみることはできないじゃないですか。それが、この本(『彷徨』)ではできる。ちょっと別の道を選んでみる、っていうのができる。

━━りべかさんは『彷徨』を読んだ時、どんな道を通られたんですか?

 結構あっちこっち行って、戻って、また別の道を選んで、なんかごちゃごちゃやってみて、最終的には全部、通りました。全パターンではないと思うけど、一応、全部の話は通り抜けました。
 
 あっちこっち飛ぶので、春秋社の方でも「分岐表」みたいなのを作ってくださっていて。校正刷りが出来て、ページ数が出たら、ページに合わせて飛ばさないといけないですから。

 どうも、一つ、間違っているのがあったみたいです。読者の方が指摘してくださって。「もしも重版がかなったら、変えましょう」と言っています。編集の方にも本当にご苦労かけました。(「後編」につづく)

2025年11月初め、『彷徨』発売直後の東京・神保町の東京堂書店
東京・神保町の東京堂書店の『彷徨』特設コーナー(2025年11月)
ジャカルタで英語教師をしている「あなた」は悪魔と契約して、旅に連れて行ってくれる赤い靴を手に入れた……。読者自身が選択肢を選ぶことで物語を進めるゲームブック形式…
book.asahi.com
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