【賀集さんへの手紙】 二つの時間 池田華子

【賀集さんへの手紙】 二つの時間 池田華子

2021-08-01

 賀集さん。賀集さんが突然にいなくなった6月29日から、私の中では二つの時間が流れています。

 一つは、止まってしまった時間。2021年の干支の牛にペン子とアマビエが乗っている絵の描かれた、賀集さんが作ってくださった今年の日めくりカレンダー。「29 Juni Selasa」。今でもこれをめくることができません。時間を戻したいと願い続けています。

 もう一つは、日常の時間。食べて、飲んで、体温を測って、トレッドミルで歩いて、仕事をして、人としゃべって、笑ったりもして、夜になったら寝る。翌朝にまた目が覚める。私はこの二つ目の時間を生きながら、いま流れているこの時間が何なのだか、よくわかりません。

 ユーロの決勝があってイタリアが勝ちましたよ。オリンピックが開幕し、アジア・パラで賀集さんがサポートしてくださったカメラマンさんが活躍しています。私の写真フォルダには賀集さんの登場しない写真がたまっていきます。

賀集さんに染め直しをしてもらった象のバティック

 賀集さんがいなくなられる前に、ちょうど、ますむらひろしの『銀河鉄道の夜』を手に入れて読みました。息を呑む美しさの絵があふれた本の冒頭には「『銀河鉄道の夜』は、愛しい死者を、離れたくない心が『どこまでも送っていく』物語なんだ」と書かれています。賀集さんが銀河鉄道で空を旅しているなら、私も一緒に乗りたいのです。列車の中で賀集さんと語らっている自分を想像しました。

 「賀集さん、本が出来なくてごめん」
 「ああ、いいよ、いいよ、仕方ないよ」

 賀集さんはさっぱり答えてくれましたが、これはあまりにも都合の良すぎる想像でしょう。

 二、三年前だったか、賀集さんはきっぱりした口調で「華子さん。バティックの本を作りましょう。作りたい」と言われました。それまでは、私がバティックについて書くことを勧めても、忙しさのためか、おっくうなのか、生返事。ご自分のバティック師匠であるカトゥラさんのインタビューは「やる」と決めて、ボイスレコーダーやカメラを買って聞き取りを始めておられたものの、録音は放ったままで、文字にする作業は進んでいないようでした。私が手伝わないとな、と思っていました。

 だから、賀集さんの方から「本を作りましょう」と言われたことは、軽い驚きとして、鮮明に覚えています。「おー、やりましょう、やりましょう!」と私は即答しました。しかし、どんな内容にするか、その構想を少し話し合ったのみで、そのまま放置してありました。「いつでもできる」と思っていたのです。私はそのことを激しく後悔しています。この後悔は、私が死ぬまで背負っていく後悔です。

 賀集さんの話はいつでも聞けると思っていました。便利な日めくりカレンダーは来年もお願いできると当然のように思っていました。賀集さんのマスクもバティックも、いつでも買い足しできると思って、惜しげもなく人にあげていました。お願いしてあった生命樹のバティックもいずれ出来上がってくるだろうと思っていました。賀集さんに甘え、面倒なこともいろいろお願いしていました。そして、そんな風に緩くつながった日々を送る中で、時々、「こんなの作りました。拡散お願いします」と、ラインでぽん、と新作の写真が来る。それがずっと続くと思っていたのです。

 サッカータオルを飾ってマッサージチェアまである、賀集さんらしく居心地良く整えられた千葉のマンションを訪れたことがあります。いつか、夫であるコマールさんが亡くなられた後の「はるか先の将来」には、賀集さんは日本へ帰り、ここで「老後」なるものを送るだろう。その時になってもまだ、チレボンの思い出話などをしながら交流させてもらえたらなぁ、と漠然と将来を思い描いていました。

 私はまったくわかっていませんでした。人はいつ死ぬかわからないこと、死とはいつも「突然」で、「急すぎ」て、「信じられない」ものであることを。こんなにも、やりかけた事の只中で去らなければいけないということを。

 最近の賀集さんが「終活、終活」と言いながらも、まだまだ多くのことに挑戦されていたこと、やりたいアイデアが山のようにあっただろうことを知っています。バティック職人さんの確保が厳しくなり、長期化するコロナ禍が追い打ちをかける中でも、賀集さんはまったく不屈でした。「ええー、どうしよー」と言いながらも、私が工房へ行ったり会話を交わすたびに、次々にアイデアが作品となって生み出されていることに、本当に驚かされていました。そのいっぱいのやりかけの仕事の只中にあって、賀集さんはいなくなってしまいました。

 人が一生で成し遂げられることはあまりにも少なく、限りがあります。しかし、私は賀集さんから学びました。一人ができることは有限でも、その人の業績とは「それを引き継ぐ人がどれだけいるか」と言えるのではないか、と。

 私が茫然自失で激しい後悔の中にいた時、友人の西川知子さんはまったく違うことを思考していました。「賀集さんがあれだけ愛して気に掛けていたバティックやバティック職人さんたち、それをどうすれば守れるか」。知子さんに「できることを、できることからやろう」と言われ、その一言が私を救ってくれました。ほかにも多くの方たちと気持ちを共有することで、私は慰められました。

 まずは、竹田有希さんからアイデアをいただいたオンライン作品展の呼びかけをしました。これからバティックについて少しずつ書き、賀集さんと構想していたバティックの本を作ることを最終的な目標にしよう。しかし一番の問題は、賀集さんの作品を作り続け、バティック職人さんたちに仕事が回るようにするには、どうすればいいか。

 知子さんと「スタジオ・パチェ美術館」が出来たらいいね、どこかのギャラリーに間借りさせてもらうとか?といった構想を話し合っていた矢先、コマールさんの娘のラニーさんより「パチェ工房を続けようと思っている」という、とてもうれしい知らせが届きました。チレボンの家を改装してギャラリーのようにして、賀集さんが大事にコレクションされていたバティックを展示する。賀集さんのデザイン画を基に作品を作り続ける。その計画を聞いて、久しぶりにしみじみうれしい気持ちで、ジャカルタの空を見上げました。

 本当に、人のつながりとは素晴らしいですね。賀集さんの代わりになれる人はいなくても、皆の力を結集したら、もしかしたら?

 賀集さんは私のジャカルタのアパートに泊まっている時でも、居心地良い千葉のマンションにいる時でも、いつもチレボンの工房へiPadでライン電話をしては、いろいろ細かい指示を飛ばしていました。いろんな人たちをつないでいた賀集さん、これからもつないでください。「バティックを残したい」という賀集さんの思いが後世につながるように。

 私はカレンダーをめくろうと思います。私の生きている二つ目の時間で、賀集さんも生きてください。
 

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