東京在住の編集者、渡辺尚子さんが編集発行した「イし本(「インドネシアの推しを語りつくす本)」。39人の原稿42篇が集まり、編集・デザイン・校正が終わって、ついに印刷へ。その後の「イし本」の歩みです。
文と写真・渡辺尚子
印刷所から段ボール箱に詰まった「イし本」が届き、販売開始!
2024年11月13日、印刷所から大きな段ボール箱4個に詰まった「イし本」が届きました。宅配の人が箱を持ち上げるときに「くっ」と声を出しました。そのぐらい重かったのです。
あけてみるとインクの匂いがして、刷りたての「イし本」が角をそろえてぎっしりと入っていました。嬉しくてすぐに写真を撮り、編集チームに送信して完成を喜び合いました。
それでも夜になり、段ボールの間に挟まるようにして横になると、にわかに不安になりました。もしかしたら1冊も売れないかもしれない。このまま80歳、90歳になっても、わたしの横にこの段ボールが積んであるかもしれない。すっかり目が冴えてしまいました。
なんというだいそれたことをしてしまったのだろう。あんなにお金を注ぎ込んで。
しばらく憂鬱にとらわれましたが、ふと「この本をほしがっているのは、わたしひとりかもしれない。けれど、わたしがこの1冊を読みたいと思う気持ちは、残りの数百冊を集めてもおつりがくるぐらい強いぞ」と思いました。そのぐらい、「イし本」は良かったのです。そして「早く執筆者のみんなに手にとってもらいたい」と思いながら、ぐっすりと眠りました。
心ある書店やオンラインショップに巡り合って、「イし本」は、インドネシアでも日本でも、多くの読者に求められるようになりました。
日本だと、インドネシアに興味のある人や、仕事先の人と仲良くなりたいからと買っていく人。インドネシアのことはまったく知らなかったけれど「推し本」の姉妹本として楽しむ人。
インドネシアだと、駐在の方や長年の在住者、日本語を勉強しているインドネシア人も買い求めていくとききました。
能登で被災し、「5分後にこの世界から消えるかもしれない」
大量の「イし本」を抱えて再びジャカルタへ向かったのは12月中旬のこと。Press Print Partyというアートブックと印刷物のイベントに参加したのです。できあがったばかりの「イし本」を手に、執筆者や読者と喜び合いました。
そのときにも、何人かの方から「3カ月ちょっとで本をつくるなんて、よく思い切りましたね」と言われました。たしかにそうだなと思うのですが、3カ月間は5分間とくらべたら十分に長く、豊かな時間です。
「『イし本』を作ろう!」と思い立った日のちょうど7カ月前、旅先の能登で被災しました。壊れた脱水機に放り込まれたような揺れのあと、3日間避難生活を送りました。たまたま命拾いし、たまたまたくさんの人たちの助けを借りて東京の自宅へ戻ってこられたから、その年の終わりに「イし本」を作ることができた。でも、あの体験がなければ、インドネシアへの旅も「イし本」作りも決してしなかっただろうと思います。
5分後にこの世界から消えるかもしれないという緊張感は、今もなお、体のどこかに残っています。だからこそ、不確定な5分後ではなく、今を心から生きたくなった。今この瞬間の最善をつくして、心から笑ったり泣いたり怒ったり楽しんだりしながら、今、今、今、の連続のなかで生きていこう、と。
そんななかでバティックツアーに目がとまったのは、幸運だったと思います。「今、これが好きでたまらない!」と語れる、多様な価値観の人たちの生きる土地を歩くことができたのですから。
執筆者の多誤さんから「読んでみたら、まだまだ知らないインドネシアがありました。本当に世界は広い、面白いです」と嬉しい感想をいただいたときに、こんなことを考えました。
誰かが、自分の好きな「推し」を夢中で喋っている。猫が好き、虫が好き、電車が好き、酒が好き。早口で饒舌に語られるその中身を聞いても、もしかしたら一言も理解できないかもしれない。でも「あー、もう、たまらん! 好き!」という、心からの気持ちが伝わってきて、こちらまで幸せになります。
誰かの「好き!」の対象を、自分が好きにならなくてもいい。「好き!」という思いそのものをただ共有すればいいことです。そうやってお互いを尊重しあって生きていけば、本当は、この世はそんなにひどいことにはならないのではないか。
自分が知っているちっちゃな世界だけでなく、本当はこの世界にはこんなに好きなものがあふれている、と知ること。世界は自分が思うよりもずっと広く、豊かで面白い。そう思えることが、消えない希望になるのではないかと考えます。
「イし本」は評判がよく、初版は早々に売り切れて、今は重版をお届けしている最中です。到着初日に心をかき乱したあの段ボール箱は消え、代わりに新たな段ボール箱が部屋を占めていますが、心は穏やか。取り扱ってくれるお店ができて、お客さんたちの様子や、店主や店員さんの誠実な態度、彼らの静かで熱いこころざしに触れて、「この人たちの手を通して届くなら、いつかきっと良い読み手にめぐりあえるだろう」と思えるようになったからです。
わたし自身が、「イし本」の続編を手がけることはなさそうです。この一冊にすべての力を注いでしまったため、これを超える続編を思いつかないのです。作りたい人がいつでも続きを始めればいい。見ればもう、それぞれが自由な活動をはじめています。zineづくりに目覚めた人、執筆者のサインをもらう旅に出た人、などなど。このサイト(+62)でも、新しく連載が始まるときいています。そんなふうに自由に広がっていく様子が眩しく、嬉しく、大いに励まされます。
自立しながら助け合って、朗らかに思い思いに進んでいく。わたしにとってはそんなひとりひとりの姿が、インドネシアの懐深い印象と重なっています。(おわり)
渡辺尚子(わたなべ・なおこ)
東京生まれ。学生時代は舞台美術研究会に所属し、ライブハウスや小劇場の照明にあけくれる。卒業後、出版社勤務を経て、フリーランスの編集者、ライターとなる。現在は東京西郊の、野鳥が集まる雑木林の近くに暮らしながら、市井の人々の生活を記録している。「暮しの手帖」「なごみ」などで連載中。
「イし本」(いしぼん)
A5、90ページ
販売価格 日本1980円(税込み)、インドネシア16万ルピア
「イし本」販売先の一覧(日本・インドネシア)
Calo Bookshop(日本、オンライン販売もあり)
Post(インドネシア、オンライン販売もあり)
https://www.tokopedia.com/postpress/ishibon-short-essays-from-40-japanese-writers-about-indonesia-full-japanese?extParam=src%3Dshop%26whid%3D7603630&aff_unique_id=&channel=others&chain_key=Baleo Books(インドネシア、オンライン販売)
https://www.tokopedia.com/baleobooks/ishibon-kaleidoskop-indonesia-42-cerita-dan-renjana-1730774469702616764?extParam=whid%3D18118953%26src%3Dshop&aff_unique_id=&channel=others&chain_key=