インドネシアの推しを語りつくす「イし本」の話 ① 渡辺尚子

インドネシアの推しを語りつくす「イし本」の話 ① 渡辺尚子

2025-01-14

2024年12月に発行され、大きな反響を呼んでいる「イし本(いしぼん、インドネシアの推しを語りつくす本)」。「イし本」は、なぜ生まれたのでしょうか。そもそも、なぜこれを「作ろう」と思ったのでしょうか。「イし本」編集発行人である東京在住の編集者、渡辺尚子さんに寄稿していただきました。3回にわたってお届けします。

渡辺さんが「イし本」に書いた屋台のブブールアヤム
筆者が「イし本」に書いたのは、屋台のブブールアヤム

文と写真・渡辺尚子

 去年の8月1日の朝に「イし本」をつくろうと思いたち、11月13日に印刷所から数百冊の「イし本」がドンと届きました。「イし本」とは、39人の執筆者がインドネシアの個人的な推しをひたすら語りつくす本のこと、いわゆる自主制作zineです。この3カ月半の制作の日々が大変面白かった。そのことを記しておこうと思います。

初めてのジャワ島旅、すべてが新鮮!

 去年の7月、30年ぶりにインドネシアを旅行しました。たまたまSNSで+62の「ソロ・バティックツアー1泊2日」を見かけ、参加してみようと思ったのです。ツアーの前後でジャカルタとソロに滞在することにし、1週間ほどの旅程を組みました。ついでにSNSでやりとりをしていた在住者とも何人か会う約束をして。

 ジャワ島は初めて。町並みも、食べ物も手仕事も、店の看板の書体も、聴こえてくる音も、目に映る植物も、鳥の声も、すべてが新鮮でした。最も印象に残ったのは、人です。「ジャワ島は初めて」というと、出会った人たちがいろいろとおすすめを教えてくれました。屋台の料理や、バティック、ジャムウ、おやつ、などなど。楽しそうに語る姿を見ていると、それだけで愉快な心持ちになります。

ジャカルタから列車でソロへ向かう
ジャカルタからソロへ向かう列車から見た景色
バティック工房での昼食
ソロのバティック工房での昼食

 とくに印象深かったのは、ソロで出会ったワヤン研究者の岸美咲さん。彼女のおかげで、夜、念願のワヤン・クリを見る機会に恵まれました。明け方、興奮も冷めやらぬまま、タクシーでの帰路。岸さんは私に、ワヤンの魅力を教えてくれました。話はどんどん熱を帯び、専門用語や固有名詞が次々と飛び出します。素人のわたしにはほとんど理解できません。にもかかわらず、その話にわたしは夢中になってしまったのです。

 なんて、なんてすごい世界があるんだろう! 彼女の喜びの琴線を通して、世界の深みに触れたような気がしました。

 タクシーが目的地についても、岸さんは熱く熱く語り続け、わたしは車を降りるのも忘れて聞き入っていました。

岸さんの案内でワヤンを見る
岸さんの案内でワヤンを見る
影絵芝居ワヤン
影絵芝居のワヤン

旅の忘れ物、「夢中で語られる『好き』をもっと聞いていたかった」

 帰国したのは7月31日です。ジャワ島旅は一週間にしては十分すぎるほど濃密で、満ち足りたものだったはずでした。

 しかし夜になって布団に入ると、なにか忘れ物をしたような気がしました。メインディッシュが出てくる前に店をでてしまったような心残り。これは一体どういうことだろう。

 考えているうちに、「そうか、わたしはもっと、話を聞きたかったんだ」と思いました。

 出会った人たちが夢中で語る「好き」を、もっと聞いていたかった。時も忘れて語るその世界に、ずっと包まれていたかった。

 なんだかさみしくなってしまってちょっと泣き、旅の疲れも出て眠ってしまいました。

 そうして、朝日の眩しさに目を覚ましたとき「あっ、書いてもらえばいいんだ!」と思ったのです。

 たまたま前年、わたしは「推し本」に執筆参加していました。これはネコノスという出版社が出した同人誌で、数十人が自分の推しについて綴ったもの。そのあと出た「牛し本」は、牛について推すという文集です。「推し本」と「牛し本」があるなら、「イし本」もあっていいのではないか。

「推し本」「牛し本」の仲間に入れてもらった「イし本」
「推し本」「牛し本」の仲間に入れてもらった「イし本」

 「イし本」を出したい!

 ネコノスに相談すると、「それは面白いですね、自由にどうぞ!」と、「推し本」のデザインをした清水肇さんまで紹介してくれました。

 版元が違うのに体裁までそっくりの本を出すというのは、ふつうならタブーです。けれどもネコノスは、「推しという言葉は誰かの占有物ではないし、やりたい人が自由に遊べばいい」という考えで、「できあがったらうちのオンラインショップでも、『推し本』『牛し本』と並べて売りますよ」と応援してくれました。

 これが8月1日の夜。

 さっそく、旅の途中で会った友人知人(SNSでやりとりをしていた西宮奈央さんと池田華子さん)に話してみました。インドネシアに長く暮らす二人は大変面白がり、「読んでみたい!」「執筆してほしい顔が何人も浮かぶ」と言いました。話を伝え聞いた武部洋子さんも、面白がって加わってくれました。編集チームの誕生です。

 彼女たちが勧めてくれる執筆者候補を、わたしはほとんど知りません。それほどまでに、インドネシア事情に疎いのです。それでも、この三人が読んでみたいという文章なら、必ずや面白いにちがいない、わたしも読みたい、と思えました。

 こうして執筆陣に声をかけると、みなさん快諾してくれました。

 紙に印刷して綴じておけば、幾冊かは50年、100年先まで残っていく。そうしたらいつか貴重な記録にもなるだろう、と考えるようになったのは、後々のことです。なにせ当初は「わたしが個人的に読みたい」ということしか考えていなかったからです。(つづく

渡辺尚子(わたなべ・なおこ)
東京生まれ。学生時代は舞台美術研究会に所属し、ライブハウスや小劇場の照明にあけくれる。卒業後、出版社勤務を経て、フリーランスの編集者、ライターとなる。現在は東京西郊の、野鳥が集まる雑木林の近くに暮らしながら、市井の人々の生活を記録している。「暮しの手帖」「なごみ」などで連載中。

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