【賀集さんへの手紙】 黒歴史? いえいえ。 信(しん)

【賀集さんへの手紙】 黒歴史? いえいえ。 信(しん)

2021-09-06

 私の記憶違いでなければ、1993年の春のこと。私は、東京都内にあるカルチャースクールでインドネシア語の初級講座を受講することになった。その時の講師が賀集由美子さんだった。

 私が入ったクラスの生徒数はたしか15人ほど。これからインドネシアへ赴任する会社員の人や、インドネシアを旅行してその魅力にとりつかれた人、趣味でバリ舞踊を習っている人など、インドネシアと何らかの接点がある人たちが多かった。

 私はといえば、インドネシアを含む東南アジアの文化に関心は持っていたものの、当時はまだインドネシアを訪れたことがなく、インドネシア語学習の動機も「アジアの言語をちょっとやってみたい」という曖昧なものだった。

 強いて言えば、インドネシア語の兄弟言語といわれるマレー語はかじったことがあり、少しなじみはあった。また、ちょっとした音楽マニアだったことで、ガムランなどの伝統音楽やダンドゥット、クロンチョン、多種多様な地方ポップ(Pop Daerah)といったインドネシア特有の音楽には大きな興味を持っていた。

 そのインドネシア語講座は週に1度行われ、基本的にテキストブックに沿って初歩的な文法や会話表現などを学ぶのだが、生徒のほとんどが初学者ということもあり、1回目の授業では、自己紹介を兼ねて、インドネシア語学習の動機などを一人ずつ話す機会があった。そこで、インドネシアへまだ行ったことがないのは私一人だけであることが判明し、「珍しいですね(笑)」と賀集さんに言われたのを覚えている。

 何回か講座を受けたところで、私は、インドネシアの芸術や文化に特に興味を持っていた他の生徒さん数人と授業前や授業後によく話すようになった。そして、授業が終わった後は、カルチャースクールの出口の前で賀集さんが出て来るのを待って、最寄りの駅までの道を約10分間、みんなで会話をしながら歩いて帰るのが習慣になった。私にとってまだ見ぬインドネシアのあれこれを賀集さんや他の生徒さんたちを通じて知ることができる貴重で楽しい時間だった。

 賀集さんがどんな講師だったかというと、テキパキと授業を進める一方で、生徒一人ひとりの関心事にも柔軟に対応してくれる親切な先生という印象だった。インドネシア語とは直接関係のない質問を生徒の一人がした時も、「勉強不足でわからないのですが、来週までに調べておきますね」というように、面倒見が良く、(私が言うのはおこがましいのだが)謙虚な人柄も感じられた。(私も何度か、趣味の音楽に関する質問をしたりして面倒をかけてしまったかもしれない……)

 賀集さんの授業を受けた期間は3カ月ほどと長くはなかったが、今でもはっきりと内容まで覚えている会話が結構ある。その一つは辞書のこと。

 当時インドネシア語の辞書をまだ持っていなかった私は、以前シンガポールを旅行した時に買ったマレー語の小型版辞書を持ち歩いていた。それに気付いた賀集さんは「マレー語とインドネシア語は結構別物だから、インドネシア語の辞書を使った方がいいですよ」と言って、定評のある辞書と、それを購入できる都内の書店を教えてくれた。

 賀集さんに紹介してもらって買ったその辞書は、私が日本でインドネシア語を勉強していた時も、その後インドネシアに滞在した時も、しょっちゅう持ち歩いてボロボロになってしまったので、10年ほど前に買い直した。信頼できる辞書の一つとして今でも時々使っている。

賀集さんに紹介してもらったインドネシア語—英語辞書。今も現役だ

 インドネシア語を始めてから約3カ月が経ち、インドネシアに対する私の興味や憧れはさらに大きくなり、インドネシア語学習の意欲も格段に上がっていた。初級講座が終了した後に賀集さんと日本で会う機会はなかった。しばらくして、賀集さんが講師の仕事を終えてバンドンへ留学したことを聞いた。私の方は、そのカルチャースクールの講座にその後も1年半ほど通い、一応、上級クラスまで修了することができた。

 それから私は、(賀集さんの後を追ったわけではないが)バンドンへ留学し、それが終わると、東南アジア数カ国で約6年間、報道関係の仕事をした。その後は独立し、インドネシア語やマレー語を扱うフリーランス翻訳者となり、現在に至る。振り返ってみれば、最初の段階で良きガイダンスを私に授けてくれて、この道に導いてくれたのは賀集さんの授業だったように思う。

留学先のキャンパス。独立50周年を祝う飾り付けがされている(1995年撮影)

 私が留学でバンドンに住み始めたころ、同地にあるカフェ&レストランのような店で賀集さんと会う機会があった。その時、まだ私が慣れていなかった口語スタイルのインドネシア語をふんだんに使いながら時折スンダ語も交えて店員と早口ですらすら話す賀集さんを見て、大きな刺激をもらったと同時に、嫉妬のような感情も抱いてしまった。そこでまた、「自分も賀集さんのようにならなければ!」という新たな野心が生まれたことも記憶に残っている。

 追悼の手紙を書くつもりだったのに、自分のことばかり長々と語ってしまい、申し訳ない。私はもう20年以上賀集さんには会っておらず、バティック関係のお仕事についても具体的なことはあまり知らないでいた。賀集さんのTwitterアカウントはフォローしており、近況はある程度把握していたが、最近は連絡を取っていなかった。

 本当に自分勝手な話だが、インドネシア留学後の私の動向などについて具体的に賀集さんに知らせることなく過ごしてきてしまい、いろいろとお世話になったことへの感謝の気持ちも伝えていなかったことを今になって悔やんでいる。

 最近聞いた話だが、賀集さんは過去に日本でインドネシア語の講師をしていたことを「黒歴史だ」などと言って、周りの人にあまり話したがらなかったらしい。

 いえいえ。あの時、賀集さんの授業を受けたおかげで、私はインドネシア語だけでなく、インドネシアそのものとも深い関わりを持つことができたのです。

 本当にお世話になりました、賀集先生。

賀集さんが拠点を置いた地、チレボンの宮殿にある博物館。貴重なガムランのコレクションがあった(1996年ごろ撮影)
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