2023年12月、+62インドラマユ・バティック・ツアーに参加した安藤彩子さんが「あまりにも素晴らしい体験だったため、備忘録として旅行記を記しましたので、感想文代わりにお送りさせていただきます。ご笑納ください」と送ってくださいました。チャップ・バティックの楽しさが十全に書かれています。許可を得て、掲載します。(+62編集部)
文・安藤彩子
目次
パサールスネン駅を出発
朝目覚めると、相変わらず白く濁ったジャカルタの空。それでも雨が降らなくて良かった。
午前6時半にパサールスネン駅に到着すると、すでにツアー参加者全員が揃っていた。皆さん、早い。パサールスネン駅はクラシカルな駅の作りで格好いい。ホームに大きなコンビニもあり、ガンビル駅より使い勝手が良い気がした。
列車は合図もなく午前7時10分、パサールスネン駅を出発。発車ベルに慣れている身からするとびっくりさせられる。
列車は東に向けて走り始め、間もなくジャティヌガラ駅を通り過ぎる。歩いたら楽しそうな景色が次々に流れていく。空が広い。車窓から目が離せない。
パサールスネンを出てから46分、チカラン駅に到着。残りの参加者6人が乗って来る。車内はほぼ満席に。チカランを過ぎると一面の田んぼ。時々通り過ぎるカンプンもいかにも農村という雰囲気になり、ジャカルタとはだいぶ違う。
降車駅のジャティバランが近付くにつれ、両側に稲刈り後の茶色い田んぼが延々と広がり、独特の景観を作り出している。空は相変わらず白いけど、日差しが顔をのぞかせている。
さて、到着。やたらと低く狭い、プラットホームとも言えないようなホームから、線路の上を歩いて、改札もない出口に向かう。日本の鉄道駅とは違う様子に皆さん面食らっているようだ。
一期一会の布
ミニバンに揺られること約30分。チャップ体験をさせてもらえるインドラマユのエディさんの工房へ到着。いつも街歩きの時に歩くような路地に入ると、軒先に干された優しい色合いのバティックが風に揺れている。蝋と染料のほのかな匂いがなければ、こんな所に工房があるとは気付かない。
エディさんの案内で長屋の入口をくぐると、土間でバティック職人の女性数人が、チャンティンを使って布に模様を描き入れている。その奥はチャップと染めを行う作業場。こちらは男性たちが黙々と作業している。
ここでひとしきりチャップの説明など受け、各自、使用するチャップを選んだり、職人たちが作っているチャップ・バティックからインスピレーションをもらったりした後、併設されたショップでさまざまなバティックを見せてもらう。
チャップ・バティックは1枚15万ルピア、日本人作家の賀集由美子さんがデザインしたチャップを使った布でも20万ルピア。さまざまなデザインがあるが、チャップとは言え、すべて手作り、同じ色柄の物は一つとしてなく、どの布も一期一会。魚柄が欲しくて、賀集さんデザインのチャップの布をいろいろ見せてもらい、色違いで2枚購入した。
まだジャカルタに来て1年と経たないころ、コロナ禍がピークとなり、ジャカルタも不安に包まれていた時に、賀集さんの訃報を読んだことを思い出した。訃報で賀集さんのことを知ったというのは残念でならない。
豊漁と無事を祈りながら、染め抜く
ひとしきり布を見せていただき、各々お目当ての布を選んだ後は、チャップ体験の前にまずは腹ごしらえということで、車に乗って移動。後で知ったが、ツアー参加者にインドラマユのことを少しでも知ってもらいたいと、直接レストランに向かわず、わざと港と海を経由するルートとしているらしい。さりげない心配りが素晴らしい。
街中を走っていると、車窓から突然、巨大な作りかけの船が見える。南スラウェシのブルクンバで見たほど大きな船ではないが、それでも十分な迫力で驚く。
やがて車が港に入ると、いつかスンダクラパで見たような遠洋漁業船が所狭しと並んでいるのが見える。水揚げされて来た魚を運ぶ人や、大きな延縄を束ねる男たち、ちょっとした市場など、次々と流れていく見慣れぬ車窓の風景に釘付けになる。ここを歩いたらどんなに楽しいだろうか! そう言えば、スンダクラパで魚を水揚げしていた漁船も「インドラマユから来た」と言っていたことを思い出した。
インドラマユの漁師たちは、遠くパプアまで、時には半年以上も漁に出るという。つい先週まで船に乗っていたこともあり、荒波を乗り越えて半年も海を行くのか、と思うと感慨深い。町で夫の帰りを待つ妻たちは、豊漁と無事を祈りながら、バティックに海のモチーフを染め抜いていくのだ。ふと、先週乗ったクルーズ船のクルーたちの顔が浮かんだ。
お昼は海の近く、ローカルな家族連れなどで賑わうシーフード・レストランで。インドラマユの豊かな海の幸をいただく。日帰りツアーなのでちょっとあわただしかったものの、新鮮な魚介類はとてもおいしかった。
チャップ体験、デッドラインは午後3時半
あわただしく食事を済ませると、再びエディさんの工房へ。いよいよチャップ体験だが、なにしろ場所と職人の人数の都合上、チャップ体験は1度に4人しかできない上、もちろん、全員が作品を作り上げて夕方の電車で帰らないといけないので、時間がない。
最初のグループが制作している間は、工房の写真を撮ったり、お店を見たり、路地の写真を撮ったりして過ごす。意外と自由時間があることに気付く。ほかの人のデザインを見ていると、それぞれ個性があって面白いし、どの柄もすてきで、どんな物を作るか決めてあったのに迷いが生じる。同じ条件でチャップを選んでいるのに、女性はエレガントだったりかわいらしい柄になるのに対して、男性は大胆で力強い柄になるのも面白い。
ほかの人に順番を譲っているうちに、気付けば最後の2人になってしまう、相変わらずのモタモタした私。最初の方が時間も十分あるし、乾かす時間もあるので、次回は勇気を出して最初に手を上げようと思った。とは言え、ほかの人の作品からアイデアを得られたので、これはこれで良かったかもしれない。
順番を待っている間に、賀集さんの親友で熟練職人のアアットさんの手描きバティック作品を見せてもらったが、その中から一目見てハッとなった草木染めの作品があったので、迷わず購入した。ほかの布より小さいサイズで高価だったが、バティック服はあまり着ないし、このぐらいの大きさがちょうど良い。何より、元々バティックよりもテヌン(織り)やパプアの原色バティックの方が好きな私が、この布の色と雰囲気に「コレだ!」と直感的に気に入ったのは、何か縁があったのだろう。どうやって使おうか、ゆっくり考えてみたい。
さて、ようやく最後の2人にも順番が回ってきた。デッドラインは午後3時半と言われている。果たして間に合うだろうか。
白い布に、柄が乗っていく
事前に送ってもらったチャップ写真を見て、ある程度デザインは決めていたが、ふと見ると、隣の男性が、すでに私が考えていたのと同じ柄で制作を始めている。時間もないし、外側は、さっき見た別の大きなチャップを使うことにした。これもまた一期一会。
チャップは「先生」こと職人さんが温め準備し、難しい端の部分などは押してくれる。先生のチャップに手を添えて、共同作業と言い張り、自分で押したことにする。特に、大きなチャップは柄合わせも難しいので、先生に頼りっきりだ。それでも真っ白な布に、自分でイメージした通り、柄が乗っていく様を見るのはとてもワクワクする。特に、真ん中に選んだ「マンゴーと船」のチャップは、あまり使われていないチャップだそうで、蝋が乗りにくく、先生ですら苦戦していた。蝋が入らなかった部分は先生が後から蝋を足してくれる。
一番小さなクジラのチャップだけは全て自分で押し(蝋を付けるのは先生がやってくれたが)、最後の1個を押し終わると「完成〜!」と先生とハイタッチ。まだ染める前だが、自分がイメージしていた通りの柄が出来上がって感慨もひとしお。所々、滲んだりずれているのも、またご愛嬌。
染めの色は青色を選んだ。大好きな海と魚のモチーフの、世界にひとつだけの風呂敷の完成。これからダイビングに行く時は、この風呂敷に荷物を詰めるつもりだ。開くたびにインドラマユのマンゴー降り注ぐ街路樹や漁師町の活気、そしてエディさんの工房のある裏路地を思い出すだろう。完成度の高いバティックはほかにいくらでもあるかもしれないが、こうして思いを込めて押したチャップで染め抜かれたバティックは世界に1枚だけだ。
充実の一日を振り返る
最後の2人も無事にバティックを完成させ、お世話になった職人さんたちやエディさん、アアットさんに別れを告げる。バティック制作時間は、使うチャップや制作者のペースによって違うはずなのに、ちゃんと参加者全員がバティックを作り上げられるよう、絶妙にスケジューリングされているのが素晴らしい。
さらにはインドラマユ名物のマンゴー(しかも大好きな品種グドンギンチュ)、アアットさん手作りのお惣菜、賀集さんのチャップのハンカチなど充実のお土産までいただき、工房を離れ、再びジャティバラン駅へ。気付けばすでに傾いた太陽が柔らかい日差しを投げかけている。無事にバティックを完成させてほっとしたからか、唐突に眠気が襲ってきた。行きはあっという間に感じた駅までの道のりもやたらに長く感じる。
午後4時58分、ジャティバラン駅を出発した列車は、一路ジャカルタを目指し、ひた走る。あっという間に暮れていく車窓を眺めながら、改めて充実した1日を振り返る。
チャップ体験ももちろん素晴らしいが、限られた時間で、恐らく普通であれば、これ以外に来ることがないであろうインドラマユの町を少しでも楽しめるよう工夫された行程や、主催者・池田さん、しるこさんの細やかな気遣い、温かく迎えてくれた職人さんたち、そして初めて出会ったのにすぐ打ち解けることができた気さくな参加者の皆さんとの出会い……本当に素晴らしいツアーだった。たまたま教えていただき、ひょんなことから一人で参加することになったけれど、忘れられない経験になった。早くも、次回はどんなチャップを使おうか、何色で染めようかなんて考えてしまう。
チャップは、個性やセンスを発揮できるツール
ジャカルタに戻った後、主催の池田さんより、賀集さんが晩年チャップ・バティックに夢中になっておられたという話をおうかがいした。今回のチャップ体験を通じて、私自身、チャップ・バティックの、手描きバティックとはまったく異なる魅力と可能性を目の当たりにした。
手描きバティックは、言わずもがな高度な技術と知識を必要とし、誰にでもできるものではないし、だからこそ高価なバティックの代名詞とされている。
しかし、チャップ・バティックには、なるほど、無限大の可能性があると感じた。と言うのも、私も含め、今回の参加者のほとんどがバティックの素人であり、未経験者だったにもかかわらず、「チャップ」というツールを使って、各々の個性やセンスを最大限に発揮して、自分らしさを布いっぱいに表現し、素晴らしい作品を作り上げていた。そして出来上がった作品は文字通り世界に一枚だけのデザインになる。
これが手描きバティックであれば、せいぜいお手本や決まったパターンをなぞるくらいしかできないであろう。また、たとえ描画の才能があり、自分で下絵を描いて、それを職人にオーダーすることができたとしても、あくまでデザインできるのは「下絵」であり、完成するバティックの色合いや線描までイメージしてデザインすることは、素人にはとてもできない。
その点、チャップ・バティックは、何十何百とあるチャップの中から、組み合わせ、配置し、デザインするという手法だからこそ、伝統や技法に囚われず、誰にでも無限にデザインできるのではないかと思う。事実、職人たちも、ツアー参加者のデザインからインスピレーションを得て、新たなデザインを制作することもあると言う。
そして、チャップ・バティックは、チャップを使用しているというだけで、その工程はすべて手作業であり、工業製品やプリントとはまったく違う。押した時の加減や、蝋の乗り方で、同じ模様が異なる表現を生み出し、またそれが面白い。さらにはデザインだけでなく、染める色や配色で、同じチャップを使っているのにまったく異なる作品になるという不思議さ。手描きとは異なる「組み合わせの楽しさと可能性」……それが賀集さんが追求したかったことなのではないか。
チャップ・バティックは「手描きより安価で手軽な手段」ではなく、チャップ・バティックという特別なジャンルだと思う。インドラマユの人たちが、賀集さんの遺志を継ぎ、是非ともこのチャップ・バティックの可能性を追求し、発展させていってほしいと、切に願わずにはいられない。