「ホウコウカイ」(Hokokai)という日本語の名前で呼ばれるバティックがある。1942〜45年の日本軍政下のインドネシアで作られたバティックだ。「時代の徒花」ともいえる奉公会バティック、一体どんなバティックなのか。ジャカルタの繊維博物館で奉公会バティックを見せてもらい、話を聞いた。(文と写真・池田華子)
日本占領下の「ロームシャ」「イアンフ」といった言葉が今もインドネシア語の中に残るように、バティックの世界にも「ホウコウカイ」という日本語が残っている。1944年3月にジャワ島で設立された大政翼賛組織「ジャワ奉公会」から取られ、軍政協力のために作られたバティックを指す。正式には「ジャワ奉公会バティック」、略して「奉公会バティック」「奉公会」とも呼ばれる。
日本は1945年8月に無条件降伏したため、ジャワ奉公会はたったの1年半で終わった。その短期間に作られた奉公会バティックについては、わからないことが多い。戦後も「奉公会」柄のバティックは制作され続けているが、戦中に作られた本物の奉公会バティックを見るには博物館へ行くしかない。ジャカルタでは国立博物館に1点、繊維博物館に1点、展示されている。

繊維博物館に展示されている奉公会バティックは「インドネシア・バティック財団」(Yayasan Batik Indonesia)の所蔵品だ。一般公開されていない博物館の所蔵品があると聞いて、博物館を訪れた。
布が収蔵されている建物は、敷地の奥にある。博物館の保存管理者であるウィドドさんと、日本語も話せるキュレーターのザフワさんが迎えてくれた。大きなテーブルの上にはジャワ北岸様式のバティックが並べられている。バティックは裏地を付けて保護され、触る時には手袋を着用。布1枚ずつに番号を付けて管理している。

博物館の所蔵品は約3000点ある。それに加えて、インドネシアの布収集家だったクスマ英子さんの遺族が約1500点を寄贈したため、現在、整理を進めている。それらの中で奉公会バティックとみられる物は2点。インドネシアのバティック愛好会の会員であるマヤ・スハルノコさんが2002年に寄贈した1点と、クスマさんのコレクションの中にあった1点だ。たった2点しかないことからも、奉公会バティックの希少性がわかる。
奉公会バティックの制作数はわかっていない。「当時、物資は不足しているし、1枚を作るのに何カ月もの時間がかかるので、それほど数は多くないはずだ。百の単位ではないか」とウィドドさんは推測する。その多くは個人の所蔵品だ。家宝として伝えられている品もあれば、コレクターの所蔵品もある。
博物館の机に広げられた奉公会バティックは、まるで匂い立つ花畑のようだった。咲き乱れる花々、花の間を飛び交う蝶。薄暗い部屋の中で、明るい光を放っているようにも見えた。





布の中央を区切って左右に違う柄を入れた「パギソレ」と呼ばれる形式。「パギ」(pagi=「朝」)と「ソレ」(sore=「夕方」)とで、布の向きを逆にして腰に巻くと、まるで着替えたように見える。ジャワ北岸のプカロガンで1930年代ごろから流行していた形式で、これが奉公会バティックにも取り入れられた。
奉公会バティックの特徴は「パギソレ」のほかに、細緻な模様で布を埋め尽くすこと。プカロガンの高級バティックはどれも細かい地模様で布を埋め尽くすのだが、奉公会バティックは「非常に密で、満杯で、フル・モチーフだ」とウィドドさん。有名な華人系の工房「ウイ・ス・チュン」のバティックを紹介した本には、「(同工房で使っている)地模様は5種類あり、通常のバティックでは1種類、奉公会バティックでは5種類全部を使う」と書かれている。そうした「密」や「フル・モチーフ」の理由としては、物資不足のほかに「日本軍による接収を免れるために、わざと時間をかけて作った」という説もある。

奉公会バティックの柄は、プカロガンの華人バティックの流れを汲む「花と蝶」、それに、インドネシアらしさを強調するかのように、バティックの代表的な古典文様である「パラン」や「カウン」などを組み合わせた物が多い。
日本的な要素としては、カラフルな桜の花があしらわれていたりする。また、布の端2辺に見られる太いL字形は、着物の「裾模様」の影響といわれ、「Susimoyo」などと表記されている。色味は、黄色の強いのが特徴だ。「アジアの光・日本」をスローガンとした日本をイメージする色として、特に黄色が指定されていたのかもしれない。



奉公会バティックを制作していた地域は、ジャワ北岸バティック生産の中心地であるプカロガンだ。ジャワ北岸バティックは、ソロやジョグジャカルタなどの王宮バティックとは異なり、ヨーロッパや中国といった外来文化の影響を受けた自由な柄と華やかな色彩を特徴とする。特にプカロガンにはヨーロッパ系、華人系、アラブ系などの多数の工房が集中し、注文生産も請け負っていた。「ウイ・ス・チュン」も、プカロガン郊外のクドゥンウニに工房があり、奉公会バティックの制作も手がけていたとされる。
プカロガンで奉公会バティックが作られた理由は、バティック技術の高さに加えて、王宮のあるジョグジャやソロに比べてバティック生産が商業的であり、日本側の注文に応じやすかったからだとみられている。「ジョグジャやソロの人々は王宮に対する忠誠心があるし、茶色を基調とする王宮バティックは日本の要求に合わない。プカロガンが一番、日本側のニーズに合って、やりやすかったのだろう」とウィドドさんは語る。
ただし、プカロガンの有名工房はコピー防止や商品保証としてバティックに「署名」を入れるのが慣例だが、奉公会バティックには署名が入っていない。「『対日協力者』『裏切り者』といわれるのを恐れたのだろう」とザフワさんは指摘する。


奉公会バティックは「友禅染めのキモノを彷彿とさせる色模様」(吉本忍編「ジャワ更紗〜その多様な伝統の世界」)、「日本趣味のバティック」(戸田正勝監修「インドネシア更紗のすべて〜伝統と融合の芸術」)などと書かれているが、ぱっと見て、明らかな日本らしさはそれほど感じられない。日本人がどの程度、その制作に関与したのかもわかっていない。「着物を見せて、デザインや色を指示したのかもしれない」とウィドドさんは言う。
出来上がった奉公会バティックは、軍政に貢献したインドネシア人に褒賞として贈られた。「奉公会の忠誠なメンバーを喜ばせるためだった」とザフワさん。日本軍の発行する軍票がほとんど価値を持たない中で、奉公会バティックは貴重な価値ある品となったと考えられる。
食料も布も逼迫する時代に、贅を尽くして作られた奉公会バティック。布を埋め尽くす細緻な模様を眺めながら「今だったらバズりますよね」とウィドドさんは嘆声を漏らす。「日本占領期は非常に苛酷な時代だった。それなのに、非常に素晴らしい作品が出来たのはアイロニーであり、複雑な気持ちだ」。
戦後、奉公会バティックは「ジャワ・バル」(Jawa Baru、「新しいジャワ」という意味)という様式に受け継がれた。色味を変え、桜などの日本的なモチーフは排除されているが、「裾模様」は残っている物もある。やがて、「ジャワ・バル」は姿を消し、今では、新たに作られた「奉公会」柄のバティックが売られている。マイナーな一ジャンルとはいえ、いまだに奉公会柄のバティックが作られ続けているのは、戦中に作られた奉公会バティックの希少性や緻密さ、美しさへの憧れから、買い求める人がいるからだろう。


「奉公会バティックは、今では日本軍政期のイメージからは離れて、ただ『美しい物』として見られている。しかし、奉公会バティックから歴史を教え、歴史を学ぶ必要があるだろう」とウィドドさんは語っている。

繊維博物館 Museum Tekstil
Jl. K.S. Tubun No.2-4, RT.2/RW.4, Kota Bambu Sel., Kec. Palmerah, Kota Jakarta Barat, Daerah Khusus Ibukota Jakarta 11420
9:00〜15:00、月曜休み
参照文献
池端雪浦編「東南アジア史 II 島嶼部」(山川出版社、1999年)
小林和夫「日本占領下ジャワにおける大政翼賛運動の展開〜ジャワ奉公会の設立過程」
吉本忍編「ジャワ更紗〜その多様な伝統の世界」(平凡社、1993年)
戸田正勝監修「インドネシア更紗のすべて〜伝統と融合の芸術」(朝日新聞社、2007年)
ピテカントロプス編「ジャワ更紗の美とその技法〜ウィ・スー・チュン工房のバティックアート」(誠文堂新光社、2015年)
Hartono Sumarsono「Benang Raja〜Menyimpul Keelokan Batik Pesisir」(Kepustakaan Populer Gramedia, 2013)
Lee Chor Lin「Batik〜Creating an Identity」(National Museum of Singapore, 1991)
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