文と写真・池田華子
1分の短い動画がある。チレボン・トゥルスミにある、バティックの「巨匠」カトゥラさんの工房。ジャカルタから来た「チレボン・バティックツアー」参加者の日本人の前で、カトゥラさんが自分の名前の意味を解説している。インドネシア語から日本語へ、通訳しているのは賀集由美子さん。
「KはKerajinan(手工芸)、AはAsli(本物)、TはTrusumi(トゥルスミ)、UはUntuk(〜のために)、RaはRakyat(民衆)。だから、『Katura』とは『民衆のためのトゥルスミの本物の手工芸』」。聞いている一同からは「おーっ」とどよめきが起こる。
普通の通訳だったら、これで終わりだろう。しかし賀集さんは一呼吸の後に「……という意味があることに気付いたそうです」と続け、予想外のオチに、どっと笑いが起こった。賀集さんは「Baru tahu ya, Pak?(今、わかったんでしょ?)」とカトゥラさんに問いかけ、笑いの渦の中で、カトゥラさんもおかしそうに笑っている。
これは、賀集さんの存在を非常によく象徴している動画だと思う。実は私もこの場に居合わせたのだが、なぜカトゥラさんが唐突に自分の名前について語り出したのか、さっぱりわからなかった。「そういう意味を込めて、最初から名付けられたのかな」とさえ思った。
「……という意味があることに気付いたそうです」とは、カトゥラさんと賀集さんの関係なくしては出て来ない言葉だ。賀集さんだからこそ、「これまでカトゥラさんから、この名前の話は聞いたことがない。今、思い付いたんだろう」と、とっさに判断できたのだろう。
賀集さんのやっていたのは「通訳」ではない。独特なユーモアのセンスに加え、長い年月をかけて築いたチレボンの人々からの篤い信頼、作り手としてのバティックと染織の深い知識に基づき、非常に温かくチレボンの人々とわれわれとを結んでくれた。今はただ、「ミッシング・リンク」とでも言いたくなる、なくなったものの大きさに呆然とするのみだ。
私がチレボンへ行った回数は、よく覚えていないのだが、二、三十回になるだろうか。インドネシアで一番好きな街もチレボン。それは、賀集さんがいたからだ。
ジャカルタを脱出し、チレボンへ行くのが何よりの楽しみだった。早朝、広々とした田んぼの広がるジャワの田舎の景色を眺め、久しぶりに息ができるような気がしながら、チレボンへ向けてひた走る。インドラマユを過ぎた辺りで、賀集さんに連絡を入れる。「気を付けてね」といった、ペン子ちゃんのライン・スタンプがポンと来る。
チレボン市内に入り、ジャカルタとは違ったのんびりした光景にほっとしながら、ガン・ビドゥリという細い道を入ると、賀集さんの工房「スタジオ・パチェ」がある。庭先には大きなマンゴーの木。玄関の前にはかわいらしいミニ・ベチャが置かれ、壁にはバティックをしたりサッカーボールを蹴るペン子ちゃんの絵(最初はなかったが、だんだん増えていった)。家のガレージを改装した、家の裏手にある工房へと続く道には、洗われたばかりのカラフルな布がいくつも翻っているのがいつもの風景だ。
「あ、どーも、どーも」と言いながら、家から出て来る賀集さん。バティック工房主でありながら、動きやすさ優先の仕事着だからか、チャップ(判押し)バティックやプリント生地を仕立てた楽そうな服を着ていることが多かった。暑がりで汗かきなので、首には手ぬぐい。
朝ご飯に、チレボン名物のナシ・ジャンブランを買って来てくれていることもあれば、賀集さんの夫のコマールさんが気に入っている、近所のナシ・レンコの店まで歩いて食べに行くこともあった。
私がチレボンへ行くと、工房の上にある「離れ」を常宿にさせていただいていた。離れのベランダから見ると、目の前には濃い緑に囲まれた赤い屋根。屋根に上ったトンデモ客がこれまでにいたとのことで、「屋根に上らないでください」との注意書き。澄んだ青空の向こうに、薄青いシルエットをしたチルマイ山が見えることもあった。
どんなホテルよりも落ち着ける、居心地の良い部屋。シャワーはなくて手桶でのマンディー(水浴)だが、マットレスのシーツとしてバティックの掛かっているのがチレボンらしいぜいたくだった。使い込まれて少し色落ちしていて、肌に心地良かった。
バティックをシーツにするなんてとんでもない、もったいない、と思ってしまうが、「布はじゃんじゃん使えばいいんだよー。しまい込んでおくのが一番良くない」と、よく言っていた。ほかにも「スレンダン(肩掛け布)を2つに折って縁を縫って、袋にしたり、枕入れにしてもいいよ。旅行へ持って行くと便利」と意外な使い方を教えてくれた。
朝はバティック職人さんたちが工房に出勤して、ラジオをかけながら作業を始める。そのざわざわした階下の物音で目覚めた。立ち上る蝋のにおい。この蝋のにおいが大好きだ。買ったばかりのバティックにも、その蝋のにおいがぷんとするのだ。
こうしてバティックを作るプロセスを眺めたり、バティック作りに関わっているいろんな人たちに会い、話をし、賀集さんと話を重ねるうちに、私はだんだんバティックを好きになっていった。それまではインドネシアの染織ではイカット(絣)の方が好きで、バティックは「よくわからない」「敷居が高い」と感じていた。
バティックを後で好きになっていたとしても、賀集さんがチレボンにいなかったら、私はただの「買い手」で終わっていたと思う。時々チレボンに行って、ちょろちょろっと職人さんたちに話を聞いて、結構わかった気になって、何枚か適当にバティックを買う。ただ、それだけだったと思う。賀集さんがいたからこそ、バティックにまつわるいろんな体験をし、世界に誇れるインドネシアの伝統文化であるバティックの奥深い世界を覗かせてもらうことができた。
賀集さんの功績が意外にもあまり顕彰されていないのは、賀集さんがすっかりインドネシアに同化していたからだと思っている。インドネシア人から見ても普通の当たり前の存在。外国人、「特別」だとは思われなかった。チレボンに根を下ろしてからずっと「チレボン人」として生きた賀集さん。流暢なインドネシア語はチレボンなまりで、語尾には頻繁に、感嘆詞の「ジェ(jeh)」を付ける。「おいしい」は「enak jeh!」という具合。
なぜチレボンを選んだのか、という問いに、賀集さんは「(バティックを作っている地域の中で)ここなら住めるな、と思ったから」と話していた。その直感は当たり、古くから港町として栄え、いろんな人々が混じり合い、自由な雰囲気の中で自由なバティックを作っているチレボンという街が、賀集さんにぴったりはまったのだと思う。
その中にあって賀集さんは、バティックの伝統は壊さずに、しかしながら賀集さんにしかできない仕事を、試行錯誤しながら次々にしていった。その功績は計り知れないと思う。
賀集さんは色にこだわり、「好きな色が出るまで染める」と話していた。スタジオ・パチェ制作のバティックは繊細で美しかった。ほかの工房ではあまり見かけない、薄いピンクなどのパステルカラーや渋い茶系の染め。一度、カトゥラさんのバティックを買って行って賀集さんに見せたら、化学染料の青一色にべたっと染められたバティックに「うーん、バティックは素晴らしいんだけど、色がなぁ……」と苦笑いしていた。
質の高いバティックやバティック小物の作品を生み出していっただけではない。ジャワの庶民を象徴する「ペン子ちゃん」たちがドタバタ悲喜劇を繰り広げる「世界初のバティック4コマ漫画!」を雑誌に連載したり、バティックでライン・スタンプを作ってみたり、インドラマユの伝統柄の中に「ペン子ちゃん」や「アマビエ」モチーフを紛れ込ませてみたり。バティックは「自由だ、楽しい、遊べる」ということを教えてくれた。
家でざっと周りを見渡すと、賀集さんの作った物ばかりだ。バティックの服、らくらくパンツ、マスク、日めくり、鍋つかみ、ティッシュケース、ポーチ、カードケース、カギ入れ、バッグ、リュック、ブックカバー、消しゴムはんこ、ライン・スタンプ、てるてる坊主に猫の蹴りぐるみに至るまで。「枚挙に暇がない」とはこのことか。
思い付いたら何でも作ってしまう。かつ、その仕事は完璧で、丁寧。てるてる坊主は、「+62チレボン・バティックツアー」を開催した際、「雨が降らないように」と作ってくれた。それが、ただのてるてる坊主ではなく、下の部分がギザギザにならないようにきちんと一直線に揃えられ(すなわち、布は四角ではなく円形にしてある)、目や口は丁寧な刺繍、首に結んだリボンはバティック、という凝りよう。
賀集さんの作る物は、ただかわいいというだけでなく、どんな物でも、細かい部分まで使いやすいように工夫され、改良を重ねてあった。だからこそ、生活の中にここまで賀集さんの物が浸透することになったのだ。心地良く、楽しく、使いやすく、私たちの生活を支えてくれていたのだと思う。
賀集さんに「インドネシアで『ビジネス』をするコツ、心構え」を聞いたことがある。賀集さんの即答は「カネの切れ目は縁の切れ目」という、身も蓋もないものだった。もっと精神論的な答えが返って来るかと思っていたのであっけにとられ、そのため、強く記憶に残っている。しかし今では、その言葉の意味がわかるような気がするのだ。
賀集さんは「バリバリの商売人」というわけではなく、あくまで本領は「自分の作りたい物を作る、アーティスト」。儲けようとする気はあまりなく、賀集さんの値付けは大体においてジャカルタ相場で言うと安すぎた。よく賀集さんに「安い! 安すぎますよ!」と言ったものだ。
その反面、賀集さんは、長年にわたってインドネシアのバティック産業の動向をつぶさに見ながら、ある種の危機感とともに、「どうしたらこの産業が生き残っていけるか」「どうしたら、現場のバティック職人に仕事とお金が回るか」を真剣に考え、心を砕いてきたのだと思う。
大人数のバティック職人を自分の工房で集めるのが難しくなってからも、シルクスクリーンと手描きバティックのコンビネーションをしてみたり、チャップ・バティックの可能性を追求したりしながら、バティック職人がこれからもバティックで生きていけるように、何らかの活路を見いだそうと努力していた。
この2、3年で、賀集さんが夢中になっていたのは判(チャップ)押しバティックだ。「+62バティック・ツアー」を主宰した有志の間で、賀集さんの発案により「マイ・チャップを作ろう」という話で盛り上がっていた。自分の好きな柄でチャップを作り、それをバティック職人に預けておく。そのチャップを使った自分の布を注文してもいいし、バティック職人が商品を作って売ってもいい。利益配分は後で考える、という感じ。
「チャップ・バティックでバティック職人さんたちに仕事は回る。そして何よりも良いのは、チャップは蝋を使う、つまり、バティックであること。プリントではない」と賀集さんは力説していた。
チャップ・バティックは「手描きとは違って、安価なバティック」というイメージだ。確かに、「安かろう悪かろう」の品も多い。しかし、賀集さんはチャップで非常に複雑な染めを施したりといった、ほかでは見られない、賀集さんらしい工夫をしていた。
賀集さんの最後の作品の一つと言えるのが、マジョリカ・タイル柄のチャップ・バティックだ。パステルカラーの非常に美しい色合いで染め上げられている。インテリアにも使えそうな「ファブリック」、「テキスタイル」的なバティック。伝統を壊さずに、新しいバティックの世界を切り開く、賀集さんらしいバティックだ。
#賀集さんありがとう
賀集由美子さんオンライン作品展を開催します
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賀集さんはしょちゅうツイッターを見ていて、ツイッターでの知り合いも多いことから、ツイッター上での開催にしました。賀集 @BTKomar さんが見ていてくださることを祈りつつ。