文・写真…岩間迅

 JR南武線で走っていた電車が2015年にジャカルタへ順次譲渡され、営業運転を始めています。日本からジャカルタへ譲渡された車両を追いかけて、ジャカルタを訪問しました。日本とジャカルタで同じ電車が走っているという、今しかない様子を味わうことができ、日本では通勤でも使用しているなじみ深い電車がジャカルタの地で元気で走っているのを見て頼もしく思いました。

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南武線の概要
 南武線は川崎駅から、川崎市を縦断し、東京都立川市の立川駅までを結ぶ全長35.5キロの路線です。路線の大半は神奈川県川崎市に属しており、北側で東京都稲城市、府中市、国立市、立川市を経由しています。南武線は路線距離のわりに駅の多いのが特徴で、約35キロの路線に26もの駅があり、およそ1.3キロに1駅が所在しています。

 全線において昼夜を問わず混雑していますが、路線の制約で6両編成と、首都圏の鉄道路線としては比較的短い編成両数で運行されています。

南武線の歴史
 南武線の前身は、南武鉄道という私鉄でした。同社は多摩川で採取した砂利の輸送を目的として設立されました。資金調達や用地買収が難航する中、浅野セメントの浅野総一郎氏が名乗りを挙げます。浅野氏はすでに青梅鉄道(現在の青梅線)を傘下に収めており、奥多摩から川崎、現在の京浜工業地帯への、セメント原料である石灰石の輸送ルートを求めていました。こうして両者の利害が一致し、南武鉄道は浅野系列に入りました。

 1927年に川崎−登戸間と矢向−川崎河岸間が開業し、1929年12月11日までに川崎−立川の全線が開通。1930年3月25日には、支線である尻手−浜川崎間が開業しました。

 南武鉄道は開業当初、目黒競馬場の府中への誘致活動、稲田堤の桜や久地の梅園など、観光客誘致に力を入れていました。しかし、1930年代に入ると、沿線に日本電気(NEC)、富士通信機製造(現在の富士通)などの工場が進出し、一気に沿線人口が増加しました。また、日本光学(現在のニコン)をはじめとした軍需産業が盛んになり、軍事施設も沿線に数多く作られたことで、南武鉄道は軍事輸送も担うこととなりました。このため、1944年に南武鉄道は国有化されます。

 戦時中は沿線が工場地帯であったために空襲の被害を受け、終戦直後は所属車両41両のうち19両しか稼動できない状態でした。1947年5〜10月には、小田急電鉄から車両を借りて運行していました。

 戦後、高度経済成長期を迎え、東京都の人口が増加すると、南武線沿線も、私鉄との乗換駅をはじめとして、東京へ通勤する人が居住するベッドタウンとして都市化が進行しました。これに合わせて車両の大型化や置き換えが行われ、貨物路線から通勤路線、生活路線へと発展していきました。1960年代には、単線だった南武線の複線化が実施され、1966年に、終点の立川駅付近以外の複線化が完成しました。なお、立川駅まで複線になったのは1999年と、近年の出来事です。

 沿線の発展と反比例するように南武線の石灰石輸送は徐々に衰退し、1998年8月13日をもって、北海道産石灰石による船便に置き換えられる形で廃止されました。なお、奥多摩での石灰石の採取は現在でも続いていますが、すべてトラックによって輸送が行われています。

205系
 南武線の車両には205系、209系、E233系があります。

 205系は国鉄末期、民営化が決定された中で誕生した電車です。当時の国鉄では、老朽化しつつあった旧型の置き換えが課題となっていた一方で、慢性的な赤字により車両への投資もままならない状況が続いていました。中央線向けに省エネ電車として鳴り物入りで登場した201系も新造コストがネックとなっており、より低コストでの導入が可能な車両にすべく、仕様見直しの機運が高まっていました。また、新型電車用に開発していた新技術も実用化しつつありました。

 検討の末、201系の製造を打ち切り新型車両を設計すること、投入先は山手線とし、余剰となった103系を秋に開業を控えた埼京線用とすることが決定し、2種類のデザイン案が公表されました。この案から1つが採用され、1984年末に10両編成4本が落成し、1985年3月から運用を開始しました。

 1989年3月には、南武線で老朽化していた電車を置き換えるために投入が開始されました。この時、すべての電車が205系に置き換えられたわけではなく、古い電車も多く残っていました。これらの古い電車は、2002年に山手線に新型車両が投入されたことに伴って転出された205系によって置き換えられました。

 このような経緯から、205系は、南武線向けに新製投入されたものと山手線から来たものと、大きく分けて2種類に大別されます。簡単な見分け方として、ドアの窓の小さいのが山手線から来た車両、大きいのが南武線向けに新製投入されたものです。

 現在は新型車両の投入が進み、205系、209系ともに、全編成がE233系によって置き換えられる予定です。南武線205系は、2016年1月9日のさよなら運転をもって、運転を終了します。

ジャカルタへの譲渡
 E233系の置き換えに伴って余剰となる205系がインドネシアに譲渡されることとなりました。最終的に120両がジャカルタへと渡ります。ジャカルタへ譲渡される分の車両は2015年12月に運転を終了しました。子供たちの電車の塗り絵を中吊り広告として掲載し、そのままジャカルタへ譲渡されます。

 ジャカルタでは、埼京線や横浜線で走っていた205系の導入実績もすでにあることから、譲渡から営業運転開始まではスムーズに進行しました。

 2015年5月から順次譲渡が開始され、9月からは6両編成を2本つなげて12両編成で、ジャカルタ・コタ—ボゴールの間で営業運転を開始しました。近年のジャカルタ首都圏の通勤電車の混雑は激しさを増しており、編成両数を増強することによって、少しでも混雑緩和を図る模様です。 

 ジャカルタへ譲渡された電車は、現地仕様に合わせるための改造が実施されます。主だったものとして、ホームとドアの段差を埋めるためのステップや手すりの取り付け、投石防止のための前面ガラスへの金網の設置、帯色の変更が挙げられます。しかし、南武線の205系の場合、帯色の変更はされず、そのままの帯色で営業運転を開始しました。前面は赤色に塗装されましたが、側面から見ると、南武線がそのままジャカルタの地で走っているような印象を受けます。

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2015年5月、ジャカルタへ譲渡されるために新潟へ輸送される南武線205系

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ジャカルタに到着後、6両編成を2本つなげた12両編成で運行を開始した

 ジャカルタには、JR南武線の電車以外にも、東京の地下鉄や私鉄で走っていた電車が多く見られます。日本でつい数年前まで走っていた電車や、今も日本で走っている電車をジャカルタで見るのは新鮮で楽しいものです。

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ジャカルタの検修庫は10両編成が収まらないので、はみ出してしまっている

廃車の車両
 ジャカルタから東へ約100キロのチカウム駅に、状態が悪かったり、事故に遭ったりして廃車となった車両が放置されています。日本であればまだまだ活躍している電車も多く、非常にもったいないと思うと同時に、譲渡車両という性質の限界も感じました。すなわち、古い電車の各部品は、当然、製造メーカーのサポートが受けられないため、故障した部品を健全な車両から抜いてくる「共食い整備」をせざるを得ない状況にあります。部品を取ってしまえば車体自体は用済みになってしまうため、放置されてしまいます。そのほかにも台車や床下機器などが大量に放置されており、譲渡した車両を長く使うための仕組み作りも必要なのではないかと感じました。

おわりに
 ジャカルタは日本の鉄道ファンの訪問も増え、注目が高まっています。日本の中古車両はジャカルタのほかにもフィリピンやミャンマー、遠くはアルゼンチンまで輸出され、世界各地で活躍していますが、中でもジャカルタは譲渡規模が群を抜いて大きく、大きな存在感を得ています。

 悪化する一方のジャカルタの交通事情改善の一助を日本の中古車両が担っていることに喜びを感じつつ、筆を置かせていただきます。

岩間迅(いわま・じん)
205系の電車を網羅した『205の軌跡』(2013年)、『205の軌跡 SC(セカンドチャプター)』(2014年)を編集発行。「タモリ倶楽部」で紹介されるなど、反響を呼んだ。日本取材のほか、ジャカルタへも205系を追って、2回、訪れている。