【インドネシア全34州の旅】#41 マルク州② ヤムデナ島 石船とキリスト教布教の痕跡

【インドネシア全34州の旅】#41 マルク州② ヤムデナ島 石船とキリスト教布教の痕跡

2021-02-21

文と写真・鍋山俊雄

 広いインドネシアはどこを地図の真ん中に置くかで周囲の風景ががらっと変わってくる。マルク州の場合、アンボン島からぐるっと南東方面に向かって半円状に下りていく形で、アラフラ海に島々が点在しており、その南にはすぐ、オーストラリアのダーウィンが位置している。

 中でも最もオーストラリアに近いのはヤムデナ島を中心とするタニンバル諸島だ。中心の街、ヤムデナ島サウムラキ(Saumlaki)には、アンボンからウイングズ航空(Wings Air)のプロペラ機で約1時間半の距離にある。アンボンからも、ティモール島からも、そしてパプア島からもほぼ等距離で遠く、アラフラ海にポツンと浮かんでいる離島だ。マルク州の一部だが、オーストラリアに近いこの地域は、どんな雰囲気なのだろうか。

 この島の旅行情報はほとんどないのだが、インドネシア東部の旅行でアンボンの空港を通過するたびに、サウムラキ行きの便があるのを見つけて気になっていた。幸いにも友人から、この島のガイドをしてくれる人のコンタクト先情報を入手し、3日間の連休でこの島に行くことにした(情報は2019年当時)。

ヤムデナ島を上空から見る

 ジャカルタ深夜発の夜行便でアンボンに午前6時に到着。同8時20分アンボン発のプロペラ機で、サウムラキに午前10時過ぎに到着した。早速停電で携帯が通じないというトラブルに見舞われたが、無事にガイド兼運転手と落ち合うことができ、空港から直接、周辺の村々を訪問することにした。

サウムラキの空港に到着

 最初に訪問したのは空港から小一時間車を走らせて到着した、海岸沿いのサングリアット・ドル村(Desa Sangliat Dol)。14世紀ごろに石を船の形に組んで作った石船(Perahu Batu)が、海を望む村の高台の広場にある。

 ガイドによれば、この村に来たらまず、村の長(Kepala Tanah)の所にSopi(ヤシ酒。インドネシア語ではアラック)を持って挨拶に行く必要があるとのこと。アクアの空きボトルに入ったヤシ酒を3万5000ルピアで買い、長の家に案内してもらった。「ジャカルタから観光に来た」と訪問の目的を告げて、5万ルピアの寄付とヤシ酒を渡した。

ヤシ酒を買う

 盃にヤシ酒を入れて3人で飲む。「飲めなければ口を付ける(cium)だけでいいよ」と言われたが、2口くらい飲んでみた。少しクセのある蒸留酒の味だ。

 そして長が、土地の言葉でお祈りを始めた。何と言っているのかわからないが、時々「サンタマリーア」と聞こえてくるのでカトリックのお祈りのようだ。その後、長と少し話をして村の歴史などを聞いた。最後にもう一度、ヤシ酒で乾杯して、長の家を後にした。

 石船のある広場の先は急勾配の石段になっており、その下は海岸だ。海岸沿いにも家が点在しているが、人はほとんどいない。男性が一人、集めた草を海水に浸けて、それを絞った汁で、ミミズを捕っていた。翌朝の漁のえさに使うのだそうだ。石段を登り、石船のある場所から海岸を眺めてみる。

石を船型に積み上げた石船(Batu Perahu)
船の舳先の先には海が見える
広場から海岸を見下ろす
海岸で漁のえさを探す漁師

 この村の人口は900人ほど。この村全体を一つの船に見立て、それぞれの家が、船の操縦に関わる役割を持っているのだそうだ。王家のほかに、警備、操縦士、オール漕ぎなど、細かく役割が分かれていて、現在でも村全体の儀式がある時には、この広場に集まる。石船の上と周囲で、各家の役割によって船のどこに立つかが決められているそうだ。王家の末裔の家は、この石船のすぐ近くにある。

船の場所でそれぞれの役割が決まっている
立つ位置を示す石(下)

 数年前に地方政府が石船を観光資源として整備すべく、船の周囲に石タイルを敷き詰めたので、地面よりも船のヘリが低くなってしまった、と村人は話していた。広場のすぐ横の家では、儀式の準備のためなのか、村の女性たちが集まって踊りの練習をしていた。

船上で王が座る所。広場の後ろの家では、女性たちが集まって舞踊の練習をしていた

 次に向かったのはロルルン村(Desa Lorulun)。ここには島で最も古い教会がある。

 まずは伝統的な建築様式を残した旧宅(Rumah Adat Desa Lorulun)を見学した。サゴヤシの葉で屋根を葺き、幹で壁を作ってある。屋根は古い葉を使えば3〜4年は葺き替えの必要がないらしい。しかし最近は若葉の使用が増えており、1〜2年で替える必要が出てくるという。この旧宅は少し高台にあり、目前には低層の村民宅が海岸まで並んでいる。風の通るヤシ葉の屋根の日陰では、暑さもあまり感じず、ゆったりとした時間が流れている。

ロルルン村の伝統家屋
屋根も柱も、地元で採れるヤシを使っている

 村の中心にある教会は立派な作りで、中は思ったよりも大きい。赤く塗られた木の柱がずらっと並んでトタンの屋根を支え、壁には十字架を担いだキリストの絵が並ぶ。入口のドア板には穴が空いていたが、日本軍による攻撃の銃痕だそうだ。

この島で最も古い教会
昔は、屋根は茅葺きだったそう。屋根は替えられたが、柱や壁は建築当時のままだ
教会から見た海の眺め
海岸に降りる所にマリア像を祀った小屋がある

 教会から海岸へ向かうと、海岸脇にも小さなキリスト像やマリア像が入った小さな礼拝堂のような建物がある。村の中を歩いてみると、何回か、子供たちに写真を撮ってくれと頼まれた。

ロルルン村のビーチ
街の子供たち

 この島の人々は同じマルク州でも、アンボンで出会った人々よりパプアで出会った人々により外見が近い。地理的にはパプア南部の方が近いのだから、それも不思議ではないだろう。

 次のトゥンブル村(Desa Tumbur)には、島の工芸職人のアトリエがあり、作品を見せてもらった。夫が木彫り細工、妻がイカット(絣織り)職人だそうだ。

トゥンブル村の入口にあるアトリエ。ここで彫刻品を買うことができる

 木彫り細工の中にはなかなか大きな力作もある。大きな船に20人ぐらいの漕ぎ手が2列になって乗っている作品は、制作に1カ月程度かかり、値段は150万ルピアとのことだった。気に入ったが、買っても飾る所がない。代わりに、小さな帆掛け船にオールを漕ぐ漁師と魚を入れる小壺が乗った木彫りを30万ルピアでお土産に買った。

船の彫刻。手前の小さな物を購入した

 初日の最後に立ち寄ったラウラン村(Desa Lauran)では、ヤシ酒の作り方を見せてもらった。

 家の脇のサゴヤシが集まる所に、茎を切ってペットボトルを受け皿として付けておく。朝、ペットボトルを付けて、夜、茎から出た液体を回収する。

ヤシ酒採集用のペットボトルが上に据えてある
蒸留小屋
蒸留する釜
蒸発した水分を、竹筒を通して、また集める

 集めた液体を壺に集めて火にかける。壺の上には竹筒が煙突のように付けてあり、中を蒸気が上るようになっている。3メートルぐらい上った所で別の竹筒をつなぎ、地面に向かって斜めに下りてくるように取り付けてある。地面まで来た竹筒に、今度は地面と並行に3本目の竹筒をつなぎ、元の壺付近まで戻って来るようにしてある。このように三角形を描くようにして竹筒を設置し、蒸留した成分を集めている。このような装置が村に何カ所かあるという。

ラウラン村には砲台がいくつか残されている

 この日のホテルは、街の中心から少し離れているが、華人経営の、海岸沿いの割合に新しい所に泊まった。夜行便で到着してすぐにずっと動き続けていたので、初日はホテルで夕食を取ってから早めに就寝した。

宿泊したホテル
まだ部屋は新しい

 2日目は、島で最大のキリスト像(Monumen Kristus Raja Saumlaki)のある場所に行ってみた。周囲に何もない森の中の一本道を走ると、キリスト像がそびえ立つ、見晴らしの良い場所に出る。

キリスト像のある広場

 十字架のキリスト像もあり、その高台からは海がよく見えた。カトリックの行事がある時に島の人々がここに集まるそうだ。

十字架のキリスト像
十字架のキリスト像のある高台から海を眺める

 海側のオリリット村(Desa Olilit)に出てみると、海岸沿いに、カトリックに改宗した村人が洗礼を受けたとされる場所に、宣教師と取り囲んでひざまずく人々の像がある。この島にはポルトガル人の宣教師がキリスト教を広めたそうだ。

布教の様子を表すモニュメント

 ウェルアン海岸(Pantai Weluan)に出てみた。ガイドの話では、この海岸を地方政府が買い上げて観光開発するという話が一度持ち上がったそうだ。しかし、地元の反対で頓挫。だからなのか、道路の整備も進んでおらず、舗装は途中で切れている。静かな海岸には、子供を連れて網で魚を獲る漁師以外、あまり人気はない。海岸には、すでに壊れ落ちた屋台跡が残っている。

人気のない静かなウェルアン海岸
魚を網で捕る親子
海岸沿いに太陽発電パネルも設置されている

 街中に戻る途中で、洞窟(Goa Tembus)の入口を見た。切り立った崖の一部が洞窟になっており、日本軍がここに潜んでいたという。砦もこの岩の上にあり、沖の敵を偵察していたそうだ。

日本軍が潜んでいた洞窟の入口

 外の島から来ているムスリムの公務員もいるため、島に小さなモスクはあるが、タニンバル諸島では9割以上がキリスト教徒だ。中心のサウムラキでも大きな教会が目立つ。華人系の商店街が集まるエリアはあるが、外国人はほとんどいないらしい。

街中には教会がそびえ立つ
華人系の商店街
街中のレストランの入口で見た彫像
街中の魚市場

 街中にある港沿いの魚市場を見学した後、街で一番大きなショッピングモールに行ってみた。3階建てで、食品雑貨を売るスーパーマーケットが入っている。驚いたことに、モールの入口には日本語で「ハッピーパートナー」という看板が両脇に出ている。はたして、日本人はおろか外国人もほとんどいないこの島で、これを読める人はいるのだろうか。

なぜか入口には日本語看板が。「ハッピーパートナー」?

 官庁街の近くには、スカルノ初代大統領の大きな銅像が立っていた。最近、このヤムデナ島と北部のララト(Larat)島を結ぶウェア・アラフラ橋が開通した。開通式にはジョコ・ウィドド大統領が来るとの話もあったが、結局、来島は実現しなかったという。

スカルノ初代大統領の像
屋根の形状が独特な県知事庁舎

 ホテルに戻る途中の海岸で、ポルトガル人宣教師が16世紀半ばごろに上陸した地点が記念碑として残っているのを見た。2人の宣教師が小さな帆掛け船でやって来る様子の絵が描かれていた。

ポルトガル宣教師の上陸記念碑

 ドイツ人宣教師が布教のために初めてパプアに上陸した地点の記念碑を西パプア・マノクワリのマンシナム島でも見たことがある。東部インドネシアのマルクやパプアには、このような経緯でキリスト教が広まっていったのだ。

 翌朝、空港に向かう時に、空港の入口にある銅像を思わず二度見した。インドネシアでは空港の入口に銅像があることは珍しくないが、そこにあったのは、子供を抱えて、銃を突き上げた女性の銅像だ。

空港前の女性像

 この女性は、空港の名前にもなっているマチルダ・バトゥラエリ(Mathilda Batlayeri)。この島出身者で、警官の妻として赴任した南カリマンタンで、1953年に起きた騒乱に巻き込まれて戦い、自分の子供と共に命を落としたのだそうだ。

女性の名前を冠した空港
ヤムデナ島からアンボン島に到着。ここでジャカルタ行きに乗り換え

 帰路もアンボン経由で戻り、夕方にはジャカルタに到着した。

 ジャカルタから遠く、オーストラリアに近いアラフラ海に浮かび、まだ森林が大半を占めるこのヤムデナ島。16世紀ごろから活発となったマルクからパプアにかけてのキリスト教布教の痕跡を見ることができる興味深い島だった。