スラバヤで買った中古自転車に乗って、スラバヤからジャカルタを目指した。

文・写真…小島鷹之
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18日目 2013年11月4日(月)
インドラマユ(Indramayu)→ パマヌカン(Pamanukan)

 朝8時に起きて9時には出発したかったのだが、寝坊をした。正午過ぎに宿を出たものの、とりあえず食堂で、いつも通り、バッソとアイスティーを注文。インドラマユを出るころは午後1時となっていた。

 まずは国道1号線との合流地点を目指して走る。片側1車線の狭い道が続き、そこを大型車が通る。生きた心地がしない。1時間ほど走り続けると、目の前に、片側2車線の広い道が現れた。国道1号線だ。ここからジャカルタまでは一本道。ひたすらまっすぐ進むのみ。

もうすぐジャカルタなので、これまでカゴに入れていた「行き先ボード」を標準装着

 最後の海を見て、この日の目的地のパマヌカンへ向かう。夕方には着くことができた。ただ、気がかりだったのは、ここはちょっと治安が悪そうだったこと。町に入る手前から、ゴミ拾いをして生計を立てているらしい人をよく見かけるようになっていた。そのほかに明確な根拠はない。でも、今まで訪れた街とは雰囲気が違うことを肌で感じていた。自分の勘を信じ、街を出て、西へ離れた国道沿いで宿探しをすることにした。

 ナイトランをして、街の中心部から2キロほど離れた所で「ホテル」の文字を発見した。バス利用者の休憩所やバスターミナルを兼ねた複合的な施設らしい。食堂や商店もあり、なかなか便利な所だ。

 受付に行って値段を聞く。料金が高ければ、この先にあるガソリンスタンドで寝るつもりだった。受付の女性いわく1泊10万5000ルピアとのこと。部屋を見せてもらうと「可もなく不可もなく」で、値段相応であった。

 今日はここに泊まることに決め、受付に戻って10万5000ルピアを渡すと、なぜか2万ルピアが返ってきた。「どうして? 間違えてるよ」と言うと、「オーナーが8万5000ルピアで良いと言っています」。そのオーナーは、宿の軒先に停めた私の自転車にまたがり、すっかり上機嫌だった。お金を払った後に値下げをしてもらったのは生まれて初めての体験だった。

 これまで出会ったインドネシアの人たちは、店と客という関係を度外視して、1人の人間として接してくれたり、助けてくれたり、アドバイスをくれることが多かった。1日の最後にそういった人情に触れることができ、最高に気持ちが良かった。

 夜中に巨大ゴキブリが2匹、現れたので、持っていた消毒液で応戦。
 
 

19日目 11月5日(火)
パマヌカン(Pamanukan)→ カラワン(Karawang)

 パマヌカンから先はさらに治安が悪くなることを想定し、ガソリンスタンド泊は構想外とする。首都圏突入へ向けて気を引き締めた。

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ジャカルタまで、あと100キロ。旅の終わりが近づいていることを実感し、うれしくもあり、寂しくもある

 この日から露骨に交通量が増えた。ジャカルタへ続く高速道路の起点になっているチカンペックの辺りでは、これまでに体験したことのない大規模な渋滞が発生していた。大都市ジャカルタに近付いていることを実感した。車と車の間を縫うようにして走り、時に、ぬかるみに足を取られながらも、なんとか渋滞を抜けることができた。小回りが利く自転車ならでは、だろう。1時間ぐらい前に私の横を通り過ぎて行ったトラックが渋滞のまっただ中にいた。これまでは車に追い抜かれる一方だったので、これはとても気持ちが良かった。

コンビニで休んでいたら、パンの集配業者のおじさんが荷台からパンを2つ取り出し、「食べな」と言って渡してくれた

 順調に走り、夕方にはカラワンの町に入ることができた。宿探しの前に、国道沿いに「カルフール」を発見したのでトイレを借りることにする。駐車場に自転車を停めると、いろんな人が寄って来て、声をかけられた。どこから来たのか、本当にスラバヤから来たのか、1人で来たのか、本当に日本人なのか、今日はどこから来たのか、など、すっかり聞かれ慣れた質問にインドネシア語で答える。あぁ、もう、俺はトイレに行きたいのに。そんなことを考えながら悶々としていると、急に、どこからか日本語が耳に飛び込んできた。

 「ほ、本当に日本から来たんですか?」

 その声の主は、インドネシア人の青年だった。彼も非常に驚いていたが、私も負けないぐらい驚いた。日本語を話すのは久しぶりだったこともあって、喉からうまく言葉が出てこなかった。むしろ彼の日本語の方が流暢だった気がする。

 彼の名前はブディ君。漁業研修生として日本で働いていたことがある。宮崎県の日南を拠点に、カツオの一本釣り漁業をして、枕崎、焼津、気仙沼などの漁港を訪れたことがあるそうだ。今は日系企業の工場で働いている。この日はたまたま仕事が休みだったので、同居している友達のヤンス君と一緒に、買い物に来たところだった。なんという偶然。年齢を聞いてみると、なんと同い年だ。これまた、すごい偶然だ。
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 かれこれ30分ぐらいだろうか、話に夢中になっていて大事な宿探しのことをすっかり忘れていた私は、2人にカラワンの宿に関する情報を尋ねた。すると「狭いですが、よかったら泊まっていきませんか」というお誘いを受けた。ここは素直に泊めさせてもらうことにする。実は、自分でもその言葉を待っていた節がある。

 2人はバイクにまたがり、そして私は自転車にまたがり、3人で2人の家へと向かった。誰かと一緒に目的地を目指すのは、これが初めてだった。楽しくて仕方がない。

 2人の家は、国道から少し入った場所にあった。自転車を軒先に停めると、部屋の中へと案内された。8畳ほどのスペースがあり、その奥にマンディー(水浴び)する場所とトイレとキッチンがあった。部屋に荷物を置き、マンディーをして1日の汗を流してスッキリ。

 スーパーで買ってきたマンゴーを食べながら談笑していると、2人は突然、身支度を始めた。「小島サン、今から僕たちはお祈りをします」と言われたので、その間はどうすれば良いか聞くと、「普通にしていて良い」と言われたので、お祈りをする2人の隣でiPhoneをいじっていた。これまでで一番、イスラムが身近に感じられた瞬間だった。
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 夜勤があるヤンス君は夜8時半に家を出発した。再び会うことを約束し、玄関先でヤンス君を見送る。その後はブディ君と、彼が日本に滞在していた時の話や、私のこれまでの出来事の話で盛り上がり、気付いたら深夜0時を過ぎていた。お互い、明日は早く起きなければならないので、寝ることにする。

 ジャワ島自転車横断旅行も、残すところ、あと2日。ブディ君、ヤンス君、楽しい思い出を本当にありがとう。

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ブディ君と自慢のバイク、そしてスラバヤから来た自転車


 

20日目 11月6日(水) 
カラワン(Karawang)→ ブカシ(Bekasi)

 午前6時、起床。朝のさわやかな空気に、草木の良い香りがした。家の前ではニワトリが駆け回っている。朝食はブディ君がいつも食べているという店のブブール・アヤム(鶏粥)をいただく。ここで食べたブブール・アヤムは、これまで食べた中で一番おいしいブブール・アヤムだった。

 バイクで出勤するブディ君と一緒に家を出た。お世話になったブディ君はバイクにまたがり、さっそうと駆けて行った。

 昨夜の睡眠時間が短かったせいか、疲労が取れていなくて、しんどい。走行中に露骨に現れる。まともに進むことができず、途中のコンビニの前で仮眠をとったりしながら、いつもより遅いペースで、この日の目的地のブカシへと進む。それでも、カラワンからブカシまでは40キロ程度だったので、昼過ぎには着くことができた。

 ブカシは想像していたよりも大きな町で、宿探しに苦労した。町の中心部と思われる、大型ショッピングモールや高層アパートが建ち並ぶエリアにある宿を何軒か回ってみたが、どこも日本のビジネスホテルに負けないぐらいの値段設定で、今までの町と比べると抜群に高かった。

 眠くて体がだるい中での宿探しは本当に辛い。宿探しに2時間も費やした末、ほかと比べると多少は安い宿を見つけることができたので飛び込む。時間は午後3時。
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 私が選んだ部屋は、内装や設備はほかの部屋と同じだが、4階にあるというだけで、通常価格より3万5000ルピアも安かった。なぜこんなにも値段が違うのかと疑問に思ったが、その疑問はすぐに解けた。エレベーターが壊れていたのだ。なので、階段を使わなくてはならない。こんなの今まで自転車で通ってきた長い道のりに比べたら余裕である。と思った自分が間違いで、階段を上り下りするたびに、息は弾み、汗が滴り落ちるのであった。3万5000ルピアの意味を知った。

 実はこの宿、浴槽が付いていた。この旅を始めて以来、初めてとなる浴槽付きの風呂だ。うきうき気分でお湯をためると、それは完全なる水風呂だった。

 宿の近くのショッピングモールにある「ホカホカベントー」で夕飯を食べる。ホカホカベントーという名前なのに、料理は冷たくてガッカリ。トボトボと宿に戻ると、また階段と水風呂が待ち受けていた。

 
21日目 11月7日(木)
ブカシ(Bakasi)→ ジャカルタ(Jakarta)

 いよいよ最終日。出発は、正午。ゴールの独立記念塔(モナス)まで、あと25キロほどだ。最後の1日は、今までの道のりを思い出しながら、1キロ1キロ、一漕ぎ一漕ぎを大切にしながら進むことにした。ブカシの町を出ると、あっという間にジャカルタ特別州に入った。

 いつになく順調に進んでいたが、ジャカルタに入って10分ほど進んだ所で後輪の感触に違和感があった。嫌な予感がした。自転車を停めて確認すると、やはりパンクしていた。まさか最後の最後でパンクかよ。思わず日本語で嘆く。ここまで来てパンク修理をするのが非常に面倒くさかったので、1キロほどパンクしたままで進んだが、パンクしたままではペダルが重く、動作が不安定になるため、危険だと判断し、仕方なくパンク修理をすることにする。
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 パンク修理ができそうな場所を探すが、周囲は工場だらけで、適当な場所が見当たらない。仕方がないので、路上駐車しているアンコットの後ろで、炎天下の中、作業を開始した。ここまでくるとパンク修理も手慣れたもので、作業自体は順調に進んだ。が、突如、腹痛が襲う。我慢できないほどの痛みだったので、修理中の自転車を置き、貴重品が入ったリュックだけを背負って、近くにあった工場に駆け込み、”Kamal kecil ada di mana?!!(トイレはどこ?!)”と言うと、その様子と必死の形相を見て、笑いながらトイレに案内してくれた。自転車は見ておくよ、とのこと。この一言のおかげで、落ち着いてトイレで戦うことができた。死闘の末に便意をやっつけたので、パンク修理もスムーズにいった。

 途中、自転車を持った地元のおじいさんが寄って来て、「俺の自転車もパンク修理してくれないか」と言ってきた。そんな余裕はなかったので、やんわりお断りした。もしこちらに余裕があれば、1万ルピアぐらいのお金をいただいてパンク修理をしていたことだろう。インドネシアで訪れた初のビジネスチャンスを見過ごすことになってしまったのは残念であった。

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パンク修理を丁重にお断りすると、とぼとぼと去って行った。おじいさん、ごめん

 ジャカルタの東側は工場が密集しており、大型車も非常に多かった。交差点で、コンテナ車がこちらの方を見ずに突っ込んできたため、危うく巻き込まれそうになった。この旅における最後の危機だった。

 パンク修理を終えてから30分ほど走った所で、ようやく、ジャカルタ中心部の高層ビル群が見えてきた。大気汚染のため、それらは霞んでいたが、それがまるで蜃気楼に浮かび上がった空中都市のようで、感慨深かった。形容しがたい感動に浸っていたが、後ろから来たバイクの群れに猛烈にクラクションを鳴らされ、一気に現実に戻された。

 今まで出会った人たち、訪れた町、遭遇したトラブルなど、いろんなことを思い出しながらペダルを漕いだ。集中して走らないと危ないことはわかっていたが、それでも一漕ぎ一漕ぎするごとに、思い出が1つひとつ、まるで、さっきあったことのように浮かび上がってきた。

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フォークリフトも自転車も、一緒に車道を走るジャカルタ

 回遊魚のように群れで走るバイクたちと並走し、ジャカルタ名物の大渋滞を抜け、中心部の高層ビル群をかきわけるようにして走ると、ついに、ゴールである独立記念塔「モナス」が目の前に現れた。果てしなく遠く感じられたゴールが、もうすぐ手が届きそうな所にある。あと100メートル、50メートル、20メートル、10メートル、3、2、1!
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 長かった。スラバヤからおよそ900キロ。かかった日数はちょうど3週間。長いようで短かった、と言いたいところだが、本当に長かった。無事にここまでたどり着くことができたのは、困っていた時に助けてくれたインドネシアの方々のおかげであり、自分1人では、決してたどり着くことはできなかっただろう。

 自転車を置いて、そのそばに仰向けになって横たわり、ジャカルタの空を見上げた。

 ありがとう、インドネシア。(おわり)

 
小島鷹之(こじま・たかゆき)
記事執筆当時、法政大学4年生。ジャワ島自転車旅行に先立ち、2011年に東京から福岡を経由してソウルまで、2012年にはバンコクからシンガポールまでを自転車で走破した。現在、日本の通信社の記者。
 

ジャワ島 自転車横断記 #1 スラバヤ → スマラン
ジャワ島 自転車横断記 #2 スマラン → インドラマユ