27 Steps of May
女子高生のメイは性的暴行を受け、家族と共に心に深い傷を負う。メイが立ち直ろうとする姿(ステップ)を描く。静かな中に迫力を感じる見応えある作品で、国内外で高い評価を受けた。
文・横山裕一
「目は口ほどにものを言う」ということわざがあるが、いい演技、凄みのある演技とはこれほどまでにセリフがなくとも伝わってくるものなのかと強く思わせる、静かな中に迫力を感じる見応えある作品だ。かつて性的暴行を受け、心に深い傷を負った少女が立ち直ろうとする姿と家族の苦しみを描いた「メイの27ステップ」は、国内外の映画祭で既に高評価を得ている。特に北欧最大といわれるゲーデボルグ国際映画祭では80カ国から出品された450作品中、優秀な70作品にも選ばれている(インドネシアからは前回紹介した「我が素晴らしき肉体の記憶(Kucumbu Tubuh Indahku)」も選ばれている)。
女子高生のメイは遊園地からの帰り、集団による性的暴行を受け、ボロボロの制服姿で帰宅する。娘の変わり果てた姿に驚愕する父親。一言も発しない娘……。
8年後。
朝、メイは縄跳びをする。壁ほぼ一面を占める棚に並べられた人形の数を数える。その日着るシャツをアイロンがけする。ボタンとボタンの間の合わせ目を上下それぞれに丁寧にアイロンの先であてる。髪の毛を後ろに束ねペアピンでとめる……。一通りのルーティンを終えると彼女の一日が始まる。彼女は8年前の忌まわしい事件以降、殻に閉じこもってしまっただけでなく、その記憶を振り払おうと同じ行動を繰り返してしまう、強迫性障害になってしまっていた。時にパニックに陥るとリストカットを繰り返してもいた。
メイは自分の部屋で、父親は隣の居間で人形作りをするのが彼らの仕事だった。黙々と作業する二人。食事の時のみメイは自分の部屋を出る。居間で父親とテーブルに座る。おかずは父親と違っていつも決まって同じもの。皿に盛ったご飯の奥、右側、左側に神経質におかずをよそってようやく食べ始める。
そんな緊張感が張りつめながらも静かに時間が流れていたある日、自分の部屋の壁に小さな穴が、そして明かりが漏れているのにメイは気づく。恐る恐る覗くと隣家の手品師の部屋だった。この小さな穴から漏れるわずかな光がメイの心に射し始めたかのように、メイと手品師のふれあいが慎重に、ゆっくりと深まっていく。穴の向こうで手品師が手元でコインが消えるマジックをする。興味を持ち、試してみるがうまくいかないメイ。ふと壁の穴を見ると「手助けがいるかい?」と書かれたメモがあった……。
二人の交流が進むにつれて壁の穴は少しずつ大きくなり、メイの日常の行動にも変化が現れた。驚きながらも喜ぶ父親。しかし、ふとした事からメイはフラッシュバックに襲われ、パニックに陥ってふたたび手首にカミソリをあててしまう……。果たしてメイは自分の悲しくも暗い過去を克服することはできるのか。
心と体に深い傷を負った女性が主人公だけに、作品はとても繊細に静かに展開していく。しかし、観るものがどんどん引き込まれていってしまうのは、冒頭にも述べたようにメイを演じた女優ライハアヌンの迫真の演技によるためだろう。本人も「無表情の中に危険な状態を秘めたキャラクターを消化し演じなければならない、これまでで一番難しい役づくりだった」と地元紙テンポに話している。感嘆詞的な声は発しているものの、彼女の台本上のセリフは二言三言だけだったかと思う。
父親役のベテラン俳優ルクマン・サルディの好演も印象に残る。娘への愛情は勿論のこと、何もしてやれないやるせなさと悔しさ、そして暴漢への、守ってやれなかった自分への怒り。家ではそれらを内に秘める一方で、闇世界の賭博格闘技の選手として、出口の見えない怒りを爆発、発散させていた。静謐な娘のシーンと暴力的な父親のシーン、静と動のコントラストも作品に張りつめた悲しみを増加させていると同時に、暴行被害者の家族も本人と同等、あるいはそれ以上の苦しみを味わっていることが強く伝わってくる。
さらに特筆したいのは演出上の配色だ。メイの部屋は白い壁に白い床、白っぽいモノトーンのシャツ、前述の食事でも常に白い皿に白ご飯、白いおかず。全体の白色トーンがシーン全体に静謐なイメージ、メイが清らかさを保ちたいという切望がにじみ出ている印象をうける。一方ですぐに汚れてしまいがちな白色のもろさも感じられてくる。こうした画面全体を統一色で表現するのは、「風林火山」武田軍の部隊の各特徴を色ごとに表現した黒澤明監督の「影武者」や、情念や誠実、思いやりといった各情念の回想シーンを色分けして表したチャン・イー・モウ監督の「Hero/英雄」を彷彿とさせる。さらに本作では、この静謐なホワイトシーンと現実の色に満ちた手品師の部屋のコントラストも、メイの閉じこもった心が外の世界へと導かれようとするイメージ効果を出しているように思える。壁の穴を通じた交流という一見奇抜なものに受け取られかねない物語も一切滑稽に見えず、かえって非常に暗喩的なものにみえてくる。まさに俳優の演技と監督の演出が相乗効果を出していると感じられる作品だ。
映画の物語が終了し、タイトルクレジットが再び出たところでふと気づくことがある。そういえば、メイの「27ステップ」とは何を指すのだろう? 強迫性障害である彼女の日常的なルーティンが27あるのか、手品師と出会って以降、彼女が自分を取り戻していく過程が27なのか、あるいは回復した暁に自分の部屋から家の外へ出るまでが27歩なのか?これについて、脚本を担当したライヤ・マカリムはウーマントークの取材に対して、「(数字は)パッとでてきたものなの」と答え、数字そのものには重要性はないことを打ち明けている。大事な事は彼女自身の「ステップ」であり、何がどれだけあったかは二次的なものだということかもしれない。
作家で編集者のレイラ・S・チュドリはテンポでの論評で、本作品のラフィ・バルワニ監督自身は話していないと前置きした上で、「作品はある家庭としてしか描いていないが、実はこの作品は、1998年5月の大暴動に伴って起きた婦女暴行事件をモチーフにしているのではないか」と指摘している。社会の不条理に関心の深い監督であることや、タイトルでもある主人公の名前がメイ(5月の意味)であることから推察したのかもしれない(上記の27は日にちとしてはあてはまらないが)。
1998年の大暴動では、ジャカルタ北部の中華街を中心に中華系インドネシア人が標的となり1000人余りが殺害、150人以上の女性が性的暴行を受けたとされている。中には暴行の上殺害された被害者もいるとの報道もあるが、混乱の中でのこの事件はいまだ法的に解明・解決されておらず、時代とともに消し去られようとしている。しかし被害者とその家族の苦しみは20年経った現在も、まさにこの作品のメイや父親そのままであろう。もし本当にこの事件がモチーフだとしたら、4月下旬から5月にかけて上映されたのは必然的であり、20年前の過去の事件を忘れてはならないという強いメッセージが伝わってくる。インドネシアの歴史の転換期に起きた未解決事件をも浮き彫りにする、まさに暗示的な作品にもなってくる。
2019年もまだ5月に入ったばかりだが、前回紹介した「我が素晴らしき肉体の記憶」とともに本作品「メイの27ステップ」は、既に「今年一番の作品」との評価も聞かれるくらい、非常に質の高い作品である。テーマは勿論、作品の質が世界に十分通用するのは各国際映画祭で評価された通り。本作品は英語字幕はついているものの、主要部分は会話が極端に無いため、例えインドネシア語、英語が判らなくても十分理解できる。是非ともこの機会に「世界レベルのインドネシア映画」を味わってもらいたい。