パプアの旅行記を見ると必ず出て来る「コテカ」(ペニスケース)を着けた写真。今でも観光用ではなくて日常的に身に着けた人はいるのか? どんな家に住んでいるのか? 同じインドネシアでありながら、いろいろ興味が尽きないパプア。中でもワメナは「探検」ではなく「観光」として行けるカテゴリー内にあって、秘境感あふれる所である。
ワメナはパプアの州都ジャヤプラから飛行機で1時間ほど飛んだ山岳地帯、標高約1800メートルの高地にある。そのため、昼はまだ良いが、夜は肌寒いと言うか、熱帯の気候に慣れた体には少し涼しい。
これまでインドネシア国内の50を超える空港に降り立ってきたが、中でもワメナは、あまりの質素さに衝撃を受けた思い出の空港だ。
空港の建物はトタン屋根の簡素な小屋で、リヤカーで運んで来て1カ所に降ろされた荷物は、皆でつかみ取り。チェックイン窓口での荷物の計量は大きな体重計と、インドネシアの地方空港でもトップクラス(?)の簡素さだった。
早朝にワメナに到着し、ツアーガイド、ローカルガイド、運転手と私の4人で、トレッキングツアーに出発した。
ツアーガイドはスラウェシ出身だが、この地に長く住んでガイドとして働いていて、英語も現地のパプアの言葉もうまい。ローカルガイドは裸にコテカのいでたちで、流暢にインドネシア語を話す。日帰りのトレッキングツアーは、ローカルガイド氏の家のあるバリエム溪谷まで案内してもらうというものだ。
車を1時間ほど走らせ、街を抜けて高原地帯に入って行く。草原を進んで川が見えた所で、車はストップ。ここで車を降りて、ローカルガイド氏の家まで、約3時間のトレッキングである。
まず、目の前の川には橋がない。靴を脱いでズボンをたくし上げて、膝上までの深さの川を歩いて渡って行く。川幅は15メートルぐらい。流れもまあまああり、油断すると川の中で転びそうである。ワイルドな出だしでワクワク感が高まる。
トレッキングはそんなに急斜面ではないが、綱渡りのように足を交互に出す道幅の山道をずっと進んで行く。
ローカルガイド氏はわれわれ3人分の弁当とほかの荷物を持って、裸足で軽やかに進む。道すがら、村の小学校があったり、川では地元のおばさんたちが洗濯していた。ツアーガイドが地元の言葉で挨拶を交わして、写真を撮らせてもらったが、お礼にたばこを渡しているようだった。この地では観光客が増えて、写真を撮られることも商売になっている。
しばらく歩いて昼食の時間になり、3人で弁当を広げて食べていると、地元の子供のきょうだい2人が木陰からじっと見ている。ガイドが「飴をあげると喜ぶよ」と言うので、ガルーダ機内でもらった飴を見せると、目を輝かせながら近寄って来た。飴の包装を開けて、1つずつ食べさせてあげると、とてもうれしそうに口に入れて、また駆け出して行った。
村が近付き、ホナイ(Honai)と呼ばれる、マッシュルームのような形の家が点々とする集落が見えるようになった。マッシュルーム型の屋根の上や周辺に、洗濯物が干されている。さんさんと降り注ぐ太陽で、すぐに乾きそうだ。
ローカルガイド氏が、コテカに使う、瓜のような実がなる木を見せてくれた。実の中をくり抜いて、乾燥させて使うそうである。ブア・メラ(Buah Merah、「赤い果物」という意味)と呼ばれる果物の木にも案内してくれた。パプア州以外の場所では見たことがない。一見、大きな赤いトウモロコシのような実である。果皮はとても硬く、どうやってこれを食べるのだろう、と感じた。
ようやくガイドの家に到着し、中を案内してもらう。案内と言っても、狭い穴の入口を入ると、ただの円形の部屋だ。部屋は、しゃがんで動くしかない高さの天井で、2階が寝室になっている。1階にかまどがあり、そこで煮炊きして食事する。部屋の中は薄暗く、電気もない。当然、テレビなどもない。
彼らの住む家は男性用と女性用に分かれていて、普段は男女別々に寝ている。結婚しても同じだそうだ。すると、どうやって子孫が続いていくのかとの疑問がわくが、ガイド氏が先んじて説明するには、夫婦で必要な時は、夫が妻の住む女性の家に行き、彼らのみが1階で一緒に寝るのだそうだ。
ローカルガイド氏の家族と一緒に話をしながら、先ほど採って来たブア・メラと、彼らの主食であるウビ(イモ)を蒸した食事をご馳走になった。
ブア・メラは赤い皮を刻んで煮込んで、搾って赤いソースにし、実が入っていた鞘の部分は煮込んで食べる。少々いただいたが、塩気がなくて淡白な味わいで、サンバルやしょうゆが懐かしくなった。
そこの年配の女性たちの手には指がない。ガイドの説明によると、肉親がなくなると指を1本ずつ落としてしまう風習があったそうだ(今はインドネシア政府により禁止されている)。
再び、元の道を戻る。結構、足腰がふらつき、見かねたローカルガイド氏が、カメラなどの機材の入った私のリュックを持ってくれた。何人かの女性たちが頭に腰にいろいろな荷物を背負い、さらに小さな子供まで肩車して歩いて行くのに出会った。彼女たちは小石の多い山道を裸足で、これだけの荷物を持って、荷物を持たずにへたって歩く私よりも早いスピードでどんどん進んで行く。車やバイクが通れるような道ではなく、皆、徒歩だ。山に住むパプアの人たちのたくましさ、力強さには改めて感服した。
夕方が近くなり、涼しいと言うより、寒くなりつつある山道。皆、長袖のジャンパーを羽織っている。最後の川をまた裸足で渡る時、荷物を背負ったローカルガイド氏が「抱っこして渡ってやろうか?」と言ってきた。「いや、大丈夫だ」と自分で渡ったが、彼なら、私を荷物ごと抱えて、川を裸足で渡ってしまっただろう。ようやく夜にホテルに到着。疲れ切って食べたナシゴレンはうまかった。
翌朝、ホテル近辺を散歩した。あまり車は多くなく、人力車(ベチャ)が主な移動手段のようだ。パプアはキリスト教徒が大半のため、街中に教会が多い。近所のパサール(市場)をのぞいてみたら、ほかの地域のパサールではあまり見たことのない物が目に留まった。恐らく女性の髪飾りや装飾に使うのであろう、カラフルな糸の束だ。黒褐色の肌に原色のカラフルな色合いはよく似合う。ジャワ島とはまた違った色遣いである。
2日目のツアーは前日と反対方向へ行き、ダニ族の集落を車で巡った。車で約1時間行くと、草原の中にポツポツと集落が見えてくる。村の中には小さくて簡素だが、カラフルな教会がある。村長(酋長?)と長老格の2人ぐらいが出て来てくれて、しばらくおしゃべりをした。
パプアには200余りの部族があるそうで、部族の言葉も別々だ。従って、違う部族が意思疎通する場合は(インドネシアのほかの地域でも同様だが)、インドネシア語が共通語としての言語なのだ。
以前は部族抗争が激しく、この地域でも1980年代ぐらいまでは、死者の出る抗争も多かったそうだ。村長が、ふとももにある当時の傷跡(弓が刺さったらしい)を見せてくれた。今はもう、そのような抗争はなくなったとのことだ。
村に伝わる、昔の酋長のミイラを見せてくれた。約250年前の物だそうだ。この地域には、昔の勇者のミイラを保存している所がいくつかあるが、中でも、この村のミイラは保存状態が良いらしい。ミイラにも戦闘の傷跡が残っており、「こことここに傷がある」と教えてくれた。
次に、火のおこし方の実演。文字通り摩擦熱で火をおこす方法で、ライターなどを使うわけではない。おこした火で、彼らはたばこを吸っている。
最後に、村の女性たち何人かが出て来て、Tシャツを脱いでトップレスになって記念撮影。それから手工芸品の即売会になった。この辺は観光客慣れしているので仕方がない。写真は一緒に撮ってくれた1人当たり5000ルピアを払った。
ワメナの街中に戻って空港に行く途中、再びパサールを見学した。キリスト教徒が多いので豚肉の商いが多くなる。珍しい極楽鳥の剥製も売っていた(1羽300万ルピア)。パサールでは大半の人がTシャツ、短パンなどの服を着ているが、まだ何人か、裸でコテカを着けて、裸足で市場に買い物に来ている男性もいた。
街外れからワメナに戻る時にも、いくつかマッシュルーム型のホナイを見かけたが、どんどんトタン屋根の近代的な家に切り替わっている。これらの伝統住居も、コテカを着けた老人世代も、いずれ消えていってしまい、「観光資源」として残る以外は、日常から徐々になくなっていくのであろう。
ローカルガイド氏も仕事上、コテカを着けており、これからも着け続けるが、周りの若い世代はどんどん服装も一般化してきている、と言っていた。
10年前には、もっと伝統文化が街中でも感じられたのだろう。そして今から10年後には、街中の風景はほかのインドネシアの地方都市と変わらなくなり、山奥にも徐々にトタン屋根の家屋が広がっていくのだろう。より便利な暮らしを求めるのは自然な欲求であり、どのような生活を選ぶかは彼らの当然の権利だが、その伝統の残り香があるうちにワメナに行って良かったと思う。
毎年8月ごろにパプアの部族のフェスティバルがあり、世界中から観光客が見に来るそうだ。その時期に、今度は行ってみたいと思っている。