Nyanyian Akar Rumput
スハルト政権下の1997年から98年5月にかけて、13人の民主活動家が次々と行方不明となった。そのうちの一人がソロ出身の詩人、ウィジ・トゥクルだ。その息子を主人公にした力強いドキュメンタリー映画。事件の解明を求め、言論の自由の大切さを訴える。
文・横山裕一
いまや当然の権利であるかのような「言論の自由」。しかし、わずか20年前までのスハルト独裁政権の下では、政治批判しようとする者は当時の権力に抑えつけられ、多数の悲劇が起きた。
本作品は「ある若者」が20年前に起きた人権侵害の未解決事件「民主活動家13人行方不明事件」の解明を求め、言論の自由の大切さを訴えるドキュメンタリー映画である。2018年のインドネシア映画祭で長編ドキュメンタリー賞を受賞したほか、ポルトガル、釜山、ニューデリーなど数多くの映画祭で受賞、ノミネートした作品だ。
スハルト政権末期の90年台後半、インドネシアでも民主化を求める声が高まった。学生や労働者、芸術家から多くの民主活動家が生まれ、デモや集会で民衆に訴えかけ始めたが、1997年からスハルト政権が倒れる98年5月にかけて、13人の民主活動家が次々と行方不明となり、いまだ安否さえ分かっていない。
その一人が中部ジャワ州ソロ出身の詩人、ウィジ・トゥクルだ。彼は自作の詩を通じて政権批判、民主化を訴え続けたが、98年5月初旬、行方が分からなくなっている。その息子、ファジャル・メラこそが、前述した「ある若者」であり、今作品の主人公だ。
ファジャルはインディーズ・ロックバンドのボーカリストで、バンド名は彼の名前からとった「メラ・ブルチュリタ(メラが語る)」。父親が残した詩に彼オリジナルの曲をつけ、歌を通して行方不明となった父親の事件の究明を訴え続ける。(ファジャル作詞の曲もある)
父が行方不明となった時、ファジャルは5歳、当時すでに逃亡生活を続けていた父親の記憶はほとんどないという。しかし母(ウィジ・トゥクルの妻)と姉と共に事件解明の活動を続ける中、父親の残した詩や父についての書物を読むうちに、彼は歌で当時を知らない同世代にも訴え続けていこうと考える。
今やインターネットの時代、父親の詩をのせた彼の歌は動画で広く同世代に共感を呼んでいく。地方でのライブでも数多くの若者たちが集まり、声を合わせてウィジ・トゥクルの詩をファジャルの曲にあわせて合唱する。
スハルト政権が倒れて20年、民主化の代償となってしまった事件の解明は止まったままだ。折しも経済格差が拡がるだけでなく、政治エリートが宗教や民族問題を政治利用することで社会に閉塞感が広まる現代。若者たちにとって、ウィジ・トゥクルの詩、ファジャルの歌は「今を嘆く歌」として受け入れられているようだ。
映画の中でも頻繁に唄が紹介されるので、代表的な詩(歌詞)を紹介すると、
「花と壁」 (BUNGA DAN TEMBOK)
花にたとえるなら
我々は、あなたにとって育って欲しくない花だ
あなたは家を建てたり、土地を略奪する方が好きだろう花にたとえるなら
我々は、あなたにとって存在して欲しくない花だ
あなたは大通りや鉄の塀を開発する方が好きだろう花にたとえるなら
我々は、この世で抜け落ちてしまうような花だ
我々が咲いたとしても、あなたは壁として立ちふさがるしかし、その壁に我々はすでに種を植えつけてある
ウィジ・トゥクル
いつか我々が一斉に育った時
確信している、あなたは崩れ去るのだ!
確信を持っていれば
どこだろうと、圧政は倒れるべきなのだ!
権力者が民衆をないがしろにした時、ウィジ・トゥクルの詩は「あなた(スハルト政権)」の時代だろうと現代だろうと、いつでも輝きを見せるのかもしれない。
「民主活動家13人行方不明事件」をめぐっては、陸軍特殊部隊の「バラ組」として組織されたグループが実行犯として誘拐などを行ったことが明らかになったが、人権侵害事件としての捜査は2007年以降行われず、主犯、命令系統など全容は解明されていない。実行犯の特殊部隊員11人が国軍内の裁判で最高で22カ月の禁固という処分(一部は免職も)を受けたのみである。
その後の報道などで、陸軍特殊部隊の司令官も務めたプラボウォ氏が関与した可能性が高いとされているが、これも確定には至っていない。プラボウォ氏については、2018年公開されたアメリカの国防機密文書にも、インドネシアのアメリカ大使館からの報告として「スハルト大統領の命令を受けて、誘拐の指示を出した」と指摘されている。
映画では2014年の大統領選挙期間も描く。2期政権に入ったジョコ・ウィドド現大統領の最初の選挙である。奇しくもファジャルと同郷(中部ジャワ州ソロ)のジョコ候補(当時)はファジャルの家族と面会し、当選した際には事件解明することを約束している。
ジョコ政権の1期目では事件解明の動きはなかった。2期目では政権安定のため、ジョコ大統領は事件の指揮者の疑いのあるプラボウォ氏を国防大臣として入閣させた。事件解明は非常に厳しい状況になったようにもみえる。
映画はジョコ大統領の1期目就任までの時代とファジャル家族の活動が描かれているが、「ただすべきは声をあげ続ける」ことの大切さが、彼らの姿勢を通して強く訴えかけられてくる。奇しくも、プラボウォ氏を閣僚に入れたジョコ第2期政権が始まったこの時期に、上映された意味は逆に大きいともいえるかもしれない。
2016年にインディーズ映画として、ファジャルの父親ウィジ・トゥクルの逃亡の様子を描いた「イスティラハットラー・カタカタ(言葉に出すのはやめておこう)」(ヨセップ・アンギ・ノエン監督)が公開されている。無実の罪を着せられて指名手配されるウィジ・トゥクル。潜伏先で詩を読んだら当局に見つかってしまうので、詩(カタカタ/言葉を出すの)は、休憩だ(イスティラハットラー)という、タイトル通りの彼の心情を描いた傑作だった。
監督も製作背景も異なるが、本作品はまさにウィジ・トゥクル2部作目として製作されたかのようで興味深い。ただ既述の歴史経緯さえ把握していただければ、本作品だけを観ても十分に理解でき、彼らの熱意、訴えを感じとってもらえると思う。
主人公のファジャルと寝起きを共にしながら信頼関係を築き、撮影を続けたユダ・クルニアワン監督は「過去に重大な人権侵害事件があったことを忘れてはならない、これはいつの時代になっても変わらないことだ」と話す。テーマは重いが、音楽シーンが多く、詩と共に曲調からぐっと胸に迫る作品だ。
是非ともこの機会に、インドネシアならではの、力強いドキュメンタリー映画を味わっていただきたい。映画館は限られており、ジャカルタ周辺ではプラザ・スナヤンとデポック・タウン・スクエアの映画館のみ。ドキュメンタリーのため上映期間は短いと予想できるので、興味のある方はお早めに。(英語字幕あり)