ペン子は生き続ける 賀集由美子さんの功績

ペン子は生き続ける 賀集由美子さんの功績

2022-06-27

チレボンのバティック作家、賀集由美子さんが逝去してから2022年6月29日で1年になります。賀集さんの残した功績とは何だったのか。いま改めて、振り返ります。(文と写真・池田華子、知る花)

賀集さんの机
チレボンの自宅の机(2021年11月撮影)

「いる」と「いない」の間で

 賀集由美子さんがいなくなってから、何回かチレボンを訪れた。賀集さんのバティック工房「スタジオ・パチェ」は結局、閉鎖されてしまったが、壁画のペン子ちゃんはそのまま残されている。賀集さんと親しかった人たちのバティック工房を訪ねると、ペン子のマスクをして出て来たり、賀集さんとコラボしたバティックシャツを着ていたり、賀集さんから預かったと言う下絵の山が戸棚から出て来たり、賀集さんの下絵を使ったバティックを制作中だったり……。至る所に賀集さんがいた。

 賀集さんと一緒によく訪れたチレボンの食べ物屋、車で一緒に走った道。そこにも、濃厚に賀集さんの気配があった。賀集さんは至る所にいて、しかし、そこに賀集さんの姿だけがない。賀集さんは「いる」と「いない」の間のような、不思議な存在だった。

 そして、賀集さんの仕事についても、いろんな場面で、賀集さんの「在」と「不在」を痛切に感じた。他人が継承できる部分と継承できない部分がある。この「不在」、「他人には継承できない部分」から、賀集さんの功績を改めて考えてみたい。

賀集由美子さんののれん
賀集さんらしい色合いののれん(加治屋聡恵さん撮影)

繊細な「賀集さんカラー」

 「賀集さんのバティックの特徴とは何ですか?」と聞かれることがある。私の答えとは、まず「色」、そして「ペン子」である。

 まず、「色」というのは、日本人的な、優しい、柔らかい色合い。四季のある日本ならではの繊細な色合い。それは、南国が持つカラーバリエーションとは明らかに違う。インドネシアの地方都市チレボンにすっかり溶け込みながら、日本人の繊細さというか、確固とした日本人DNAを賀集さんが持ち続けていたことは印象深い。

 賀集さんは草木染めもやっていたが、草木染めだけにこだわっていたわけではない。「自分の好みの色を出す」ことにこだわり、「好きな色が出るまで、しつこく染める」と語っていた。数ある染織技法の中からバティックを選んだ理由についても、「筆で描く差し色と違って、蝋で伏せてから染めるので、色がしっかり染まる。染め抜いているので、色の出方が違う」と力説していた。つまり、賀集さんがバティックに惹かれた大きな理由の一つが「色」であり、自分で作るバティックの大きなこだわりのポイントも「色」だった。

 桜のような美しいピンク、濃い血のようなえんじ、渋い焦げ茶、抹茶に似た緑、深い紺、繊細なグレー。一つひとつの色の美しさもそうだが、その配色の絶妙さには、うなってしまう。

 「賀集さんカラー」を象徴する最たるものと言えば、今年3月の「ペン子ちゃんトリビュート展」でも展示した、巨大な生命樹バティック。茶系を基調とし、実に繊細な配色がなされている。直射日光が当たったら、あっという間に色あせて、色と色の狭間が消えてなくなってしまうのではないか、と心配になってしまうほどの繊細さだ。

賀集さん(スタジオ・パチェ)作の生命樹柄バティック。賀集さんの代表作の1つ

 こうした配色を、チレボンやインドラマユの他工房で見ることは少ない。南国ならではと言うか、もっと原色に近い、はっきりした、明るい色合いが多い。身に備わっているカラーバリエーション、センス、DNAが違うのだろう。賀集さんの色のように、「明度・彩度を繊細に調整した」「何度も何度も染めた」といった色にはあまりお目にかからない。

 「賀集さんの最後の作品」としてNHKの番組で紹介された生命樹のバティックは、私の家族がオーダーした物だ。賀集さんは下絵の布を渡したアリさんに、トリビュート展で展示した生命樹バティックの写真を見本として送り、「第1回(染色)プロセスは赤、茶。第2回(染色)プロセスは黄、緑、濃緑」との指示を送っていた。しかし、出来上がったのは、見本とはまったく違う、明るい色合いのバティックだった。

アリさんの工房で出来上がった生命樹のバティック
アリさんの工房で出来上がった、生命樹柄のバティック

 賀集さんと親しかった、インドラマユのエディさんの工房で、カーキ色のシャツを買ったことがある。珍しい色だな、と思って聞いたら、「染めに失敗したので別の色をかけたら、偶然、こうなった」と語っていた。また、あるバティックと「同じ物」を、と注文したが、いつまで経っても出来上がってこない。問い合わせると「何回やっても失敗するんだ。これはもう無理」と言う。「失敗」と言う品の写真を送ってもらったら、レンガ色のような明るいオレンジと若草色という、素晴らしい色合いだった。インドネシア人の職人には、色の「くすみ」や「濁り」は「失敗」と受け止められるのかもしれない、と思った。

 賀集さんの色彩と配色は、賀集さんにしか出せないものだ。「賀集さんの作った見本が存在するのだから、『この通りに作って』と言えば作れるのでは?」と思っていたのだが、そんなに簡単なものではなかった。賀集さんが最後に制作していたマジョリカタイル柄のバティックは、エディさんの工房でチャップ(判)を押しているコラボ作品だが、エディさんは「(チャップはできても)この色にするのはかなり難しい」と語り、「ほぼ不可能」と言う口ぶりだった。賀集さんの「不在」を強く感じる場面だった。

 賀集さんはバティックの伝統は壊さないように、バティックに最大限のリスペクトを払いつつ、その中で、自分にできる革新的なチャレンジを行っていた。その一つが、「日本人的な感性の色合いで作るバティック」ではなかったか。繊細な「賀集さんカラー」のバティック。それは、賀集さんにしかできない、賀集さんがバティックで成し遂げた功績だった。

インドネシア語辞書のブックカバー用に作られたバティック

ペン子は「インドネシアの教科書」

 次の特徴は、「ペン子」だ。「ペン子」は、賀集さんの作ったペンギンのキャラクター。賀集さんは、ある有名なペンギン・キャラクターが好きで、それを模した「落書き」をノートなどのあちこちにしていた。パチェ工房を建設する際に作られたノート「家兼工房の所在地は???」にも、そのペンギンの絵が登場する。パチェ工房を開いてバティック制作を始める以前から、そのペンギン自体はすでに存在していたことがわかる。

 ペンギンは賀集さんの分身であり、チレボンの自分の身の回りにいる「普通の人々」。日常の些細なことを笑い、泣き、怒り、喜んだりしながら、日々の生活を送っている。両親が淡路島出身の賀集さんには「関西人のノリ」が根底にあり、賀集さんのペンギンたちも、ボケとツッコミが得意な関西人のように捉えられる。

 このペンギンをバティックにすることについて、賀集さんは慎重だった。あくまで「遊び」と見なしており、おおっぴらにするものではない、という意識があったようだ。実際に、ペン子バティックが人気になってから、「バティックを冒涜している」と、ある日本人に言われた、と話していたことがある。「自分の遊びのペンギンなぞをバティックにしていいのか」という逡巡は、伝統を壊さないようにと気を遣う賀集さんには、人一倍、強かったように思う。しかし、このペンギン・キャラクターが、どんどん人気となっていく。

 「ペン子」と名前を付けたのは、私だ。命名のきっかけは、月刊誌「南極星」を創刊するに当たって、「世界初!バティックマンガ」と銘打った連載を賀集さんにお願いしたことだ。賀集さんが原画を描いてパチェ工房でバティックに仕上げるという、ペンギンが主人公の四コママンガだ。このペンギンに名前が付いていないと、雑誌連載上、なんともやりにくい。そこで、私がその場の思い付きで「ペン子ちゃん」と名付け、連載タイトルは、賀集さんの命名により「ペン子ちゃん 人生崖っぷち!」となった。

ペン子ちゃんマンガ
インドネシアの日常を描いたペン子ちゃんマンガ(ペン子ちゃんトリビュート展で、プトリ・スシロさん撮影)

 我ながら、なんとも適当に名付けたものだ、もっと良い名前はなかったのか、と思う。ここまでペン子ちゃんの存在が大きくなるんだったら、もっとよく考えて、もっとちゃんとした名前を付けるんだった……とペン子の名前が取り沙汰されるたびに後悔が頭をよぎるのだ。

 さて、適当とは言え自分の名を得たペン子は、ますますその存在を大きくし、人気者になっていく。「ペン子ちゃん」は賀集さんの代名詞になった。賀集さんも最初の逡巡は吹っ切れたようで、ペン子ちゃんはますます生き生きと、自由に、羽ばたいていった。

 そのペン子がさらにもう一段階、進化したのは、パチェ工房でバティック職人があまり集まらなくなってからだ。工房存続、残っている職人さんたちを食べさせるために、賀集さんはシルクスクリーンを始めた。

 ある意味で、バティックとは制約である。下絵も、バティックをしやすいように、バティック職人の技が生かせるように考えて描かないといけない。文字も入れにくい。シルクスクリーンだと、そんなことを考える必要はない。賀集さんの原画を、賀集さんのタッチのままで、刷れる。こうして、ペン子はさらに自由な活動を始めた。コロナ禍が始まってからも、コロナ禍での日常がつぶさにペン子の絵になって、マスクやTシャツといった作品として生み出されていった。

賀集さんのマスク
コロナ禍の日常、手洗いなどの注意点を描いたマスク(賀集さん撮影)

 この記事の冒頭で、賀集さんのバティックの特徴は「まず色、次にペン子」と述べた。しかし、最近、「まず、ペン子」なのかもな、と思い始めている。それぐらい、賀集さんの創造したペン子ちゃんの存在と功績は大きいと、最近になって気付いた。

 賀集さんのペン子柄は、大体、絵とインドネシア語の文で構成されている。マンガの「吹き出し」のように、せりふがインドネシア語で書かれている。インドネシア語がわからないと理解するのがちょっと難しいのだが、そのインドネシア語を読み解けば、絶好の「インドネシアを知る教科書」となっているのだ。こんなにわかりやすく、楽しく、インドネシアの風物や地理、日常生活からインドネシア語までを学べる教材は他にはないのではないだろうか。

 その絵は、しっかりした画力とリサーチによって描かれている。一度、バリ島の楽器「ジェゴグ」柄のバティックをお願いしたことがある。賀集さんは写真を検索し、いろんな角度からのスケッチを繰り返していた。賀集さんの手元に置かれたiPadは、そうした画像検索でも活躍していた。いい加減に、適当に描かれた絵は一つもない。

 そして、特筆すべきは、この「ペン子」がインドネシア人にもウケていることだ。「ペン子ちゃんトリビュート展」会場となった「アルンアルン・インドネシア」を創設したピンキーさんは、「ペン子」の大ファンだ。「ペン子愛」を熱く語り、+62で制作した「ペン子ちゃん手帳」も「友達に配るんだ」と言って、トートバッグとのセットを大量買いしてくださった。

 弊社のインドネシア人社員も「ペン子ちゃん手帳」を自費で購入して、ペン子の絵を一つずつ見ては、「かわいい、面白い」と言って、ゲラゲラ大笑いしていた。THR(レバランボーナス)をもらうところ、暑くて水浴びしているところ、犠牲祭のヤギ……一つひとつ見ては、そんなにウケるか、というぐらいに笑っている。

 インドネシア人にとっては、日本人(外国人)が、自分たちの日常をこれほど正確に、かわいく、面白く、マンガとして表現してくれたことが新鮮だったのではないだろうか。そして、ペン子には「ユニバーサル・デザイン」とでも言うべき魅力がある。バティックとはまた別にして、「ペン子」というキャラクターを生み出したことは、賀集さんの大きな功績として挙げられるだろう。「ペン子」という存在を通して、バティックを含めたインドネシアの文化をわれわれに紹介し、われわれとそれらを温かくつないでくれたのが賀集さんだったと思う。

 賀集さんは何かあるたびに、気軽にささっとペン子の絵を描いていたが、新しい絵が生まれることはもうない。しかし、ユニバーサル・デザインとしての力を持つペン子は、二次創作された「第二世代」となって拡散されていきそうだ。ヨーロッパのモチーフや童話も含め、様々な新しいモチーフを積極的に取り入れてきたチレボン・バティックの中に、「ペン子」柄が定着していくかもしれない。ペン子は、賀集さんは、これからも生き続ける。

ペン子ちゃんトリビュート展〜賀集由美子さんの軌跡 その3
目黒雅堂 書画 Meguro Gado Kaligrafi dan Lukisan Photo by Putri Soesilo Photo by Putri …
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ペンギンに喜怒哀楽込め 賀集由美子さん逝く
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