バウマタルオ Bawomataluo
ニアスで恐らく最も有名なのが「石跳び」(lompat batu)。石を積んだ高さ2メートル超の台を、跳躍して飛び越える。走り高跳びのようなものだが、棒などの支えも、手も使わないし、身1つで跳ぶ。元々は「戦いのための訓練」だったそうだ。攻めて行った村の塀を跳び越えて村の中に入るための練習だった。1人だけ中に入っても殺されてしまうので、何人もが次々に飛び越えられることが重要なのだ。このため、「石跳び」は数人が順番に、次々に跳ぶことが多い。
石跳びを見に、大抵の観光客が訪れるのはバウマタルオという村。比較的、行きやすい場所にある。駐車場に車を停めて車から降りるなり、「ガイド」がぴったりついて、「ストーン・ジャンプ」のパッケージを勧めてくる。ヨハネスさんからジャンプの相場は1回10万ルピアぐらい、と聞いていたが、ここで言われた値段は1回(1人)25万ルピア、2回(2人)40万ルピア、3回(3人)55万ルピアと、あまりにも高い。「ほかの観光客がいたら、便乗できるかも」と思いつつ、まずは村へ行ってみることにした。
石段を上がった所に村があり、中央に広場のような通路、両側に伝統家屋が並ぶ。想像以上に規模が大きいことに驚いた。伝統家屋は高床式のルコのようで、床下は薪などの貯蔵場所。屋根は草葺き、レンガ、トタンなど、バラバラ。人々は普通に生活しているのだが、バリの自然さに比べてなぜか不自然さを感じるのは、あまりにも観光の売り込みが強いからだろうか。何でもカネカネカネ……という印象を受ける。ガイドが次々に説明してくれるのもチップ欲しさに、と思われるし、ぴったりついてくる子供もかわいくない。こちらは「普通の日常」をできれば見たいと思っているのに、それが最初から拒絶されているからか、なんとも居心地が悪い。
テンションが上がらないまま村をうろつくが、周りから注視されている感が強く、落ち着かない。伝統家屋の中に1軒だけ土産物屋があり、ここに木彫りが少しだけあった。しかし、あまり買う気が起きない。ピンと来る品がないのと、「祖先の霊」の話を聞いたからだろうか。彫像のほかは、猿の木彫りの付いた「ココナッツおろし機」、金を計るのに使っていたという秤、戦いの時に首を守るために着けるココナッツのバングルなど。何も買わなかったが、後になって、ここがニアスで唯一とも言える「土産物屋」だったことを知る……。
石跳びは、すったもんだの末、やることになった。2回(2人)30万ルピアでどうかと何度か交渉したが「できない」と言われ、「もういい」とあきらめたら、一転して「できる」と言ってきた。シャッターチャンスは一瞬(x2回)しかないので、Pはアングルを決めたり、撮影に失敗しないように慎重だ。光線を見て、跳ぶのは午後4時に、と頼んだが、午後3時半ごろに、ガイドが「跳ぶ人は、もう行かなくてはならない。待たせるのはかわいそうだ。早くやってもらえ」と急かす。どちらが客なのかわからない。
広場の中に、あまり目立たないさりげなさで、石跳びの台がある。台の高さは2メートル10センチ。その手前に高さ約50センチの「踏切石」がある。
伝統衣装を着てスタンバイしていた2人に跳んでもらったが、あっけなく、1秒(x2)で終わった。ものすごく高く跳ぶわけではなく、石の台の高さギリギリだが、それでも、何の支えも使わずに、ほぼ垂直にジャンプして垂直に下りるのはすごい。
2人に話を聞くと、3本ほど竹を切って並べ、50センチほどの高さから始めて、跳ぶ練習をすると言う。石を跳ぶのには14〜15歳ごろの時に初めて成功し、鶏を殺すお祝いの儀式をした。
「跳び方は自由。人によって、できる人もできない人もいる。昔は跳べないと結婚できなかったけど、今はそんなこともない。できないからと言って、罰則があるわけでもない。25歳ぐらいまで跳ぶ」。石跳びを見物していた村の男性も「昔はできたけど、今は難しい。足や腰が痛いし」と話した。
石跳びで一瞬、盛り上がったものの、その後は、特に突っ込みたい物もなく、村を後にした。写真のほかに動画も撮り、アナウンサー役も自分でやるPは、動画の自撮りで「ここはvery expensiveです」と吹き込んだ。
この日はサーファー宿に泊まった(この地域にはサーファー宿しかない)。ソラケ・ビーチ(Pantai Sorake)などの海岸沿いに宿が立ち並んでいる。さすがにサーフィンの名所だけあって長期滞在の人も多く、満室が多い。ちなみに、この地域では昼間はほぼ停電している。夜だけはジェネレーター(発電機)を使う。お湯はもちろんなく、水シャワー。
最初に見た宿は風が通らない部屋にベッド3つが置かれ、1部屋30万ルピア。「もうここしかないなら、仕方ないか」と思ったが、風の通らない息苦しさに加え、Pが「アレルギーで速攻、かゆくなってきた」と言うので、別の宿を探す。もう1軒聞いたが、満室。そこへ、「宿を探しているのか?」と女の人に声をかけられた。「部屋はある?」と聞くと「Ada(ある)」と答えて、ずんずん道を入っていく。案内された部屋は、海を眺められるテラスが付いていて、開放的で、さっきの宿より、ずっと良い。ここに決めた。
夕食は焼き魚! その後、テーブルに地図を広げて、翌日の作戦会議をするが、誰もニアスの地名をまともに言えないので、話がまったく進まない。
「バル……バルトロ……」「バウマタルオ」「バウマタルオは良くなかったから、このオラ……フォラ……」「オラヒリファウ」「オラヒリ……?」「オラヒリファウ」「オラヒリファウへ行って、その後で、このトロ……トロ……」「…………」
何なのだ、この、外国語のような地名は!
オラヒリファウ Olahili Fau
翌朝5時ごろにベランダへ出てみると、潮が満ちて、ベランダの下まで海になっていた。サンゴ礁の浅瀬の中で座礁しているかのように見えた舟が波の上に乗って揺れている。暗い海に、白い波が一直線に走る。これが、世界的に有名なニアスの波だ。サーファーがサーフボードを手に、まだ暗いうちから海へ入って行く。地元の漁民も沖に停めた舟を目指して海へ入って行く。サーファーと漁民が一緒に海へ入って行くのがおかしかった。
コーヒーとナシゴレンの朝食の後、オラヒリファウという伝統村へ向かった。バウマタルオより古く、バウマタルオはオラヒリファウから分かれた新村だ。バウマタルオよりもう少し奥に入らないといけない。難関は丸太を組んだ橋。ガッタン、ガッタンと渡るが、車の重量が耐えられるかと、ひやひやした。2つ目の丸太橋は、ところどころ穴が開いたりして、壊れている。「うわぁ……」と、車から降りて橋を確認していたら、通りかかったバイクが先導して渡してくれた。
車から降りて歩いて橋を渡り、下をのぞくと、川が流れ、小さな「採石工場」のようになっている。10人ほどの人が働いていた。川の中の石を手で集めては小さく砕き、川で洗って袋詰めしている。家を建てたり道路の資材として使われるそうだ。
石に関してはこの地域には伝説があり、昔、ワニの形をした神と帽子の形をした神がいて、2人が戦って、ともに石になったとのことだ。こうして出来た、石があふれる川を「ワニ石川(Sungai Batu Buaya)」と言う。石跳びもそうだが、この地域で石が身近な存在だったことがわかる。それにしても、「帽子の形の神」って、何……?
最後の丸木橋を渡って、村に着いた。バウマタルオと同じように長い石段があり、階段を上ったところに伝統家屋が並んでいた。しかし、ぱっと見ただけでも、バウマタルオとはまったく違う。まず、静かだ。広場となっている通路には、米や丁子などを所狭しと日干ししている。ついでに、石跳びの台の上にも洗濯物がかけてある。のどかな風景。誰も話しかけてこないし、つきまとってもこない。挨拶すると、温かい笑顔を返してくれる。子供がかわいい。
村長のシメリティ・ファーウさん(56)が家に招き入れてくれた。釘は使わず、屋根はサゴヤシの葉で葺いてある。入ってみると、家の中は意外に快適なのだ。戸口を入ったところが客間、寝室、奥に台所。小上がりのようなテラスがあり、そこからのぞくと、外が丸見えだ。家の中へ入ればプライバシーが守られており、それにもかかわらず、外の世界とつながっている感が良い。
驚いたのは、戸口の位置はどの家も同じ場所に作られており、家の通り抜けが許されている、ということ。家々を通り抜けて、村の端から端まで行ける。「雨が降っても、濡れずに歩けて便利だよ」と言う。通路が中に付いた長屋のようだ。
戸口はわざと低く作られていて、頭をかがめて入らなくてはならず、これは「相手を敬う」という意味だそう。
インドネシア語で「ゴトンロヨン」と言う、助け合い、相互扶助が強く残っており、「客が来て、場所が足りなかったら、別の家に泊めてもらうこともある」とのことだ。
村の世帯数は約230、人口は約4000人。ほとんどの人が農業で、米、ゴム、丁子、豚などを生産している。
石跳びは午後5時ごろに練習があると言うので、そのころにもう一度戻って来ることにした。値段を聞くと、跳ぶ人1人につき5万〜10万ルピアぐらいで、何回でも(客が満足するまで)跳んでくれる。支払いは「運動をして疲れた人に飲み物をおごる」という感覚で良いそうだ。つまり、心付け、チップ。
夕方、村に戻ると、良い感じの光線になっていた。メダンからの観光客もいて、跳ぶ人7人がスタンバイしている。「まずは練習ね」と言いながら、次々に跳ぶ。どこまでが練習でどこからが本番なのかよくわからないまま、「石跳び」が始まった。
跳び箱に似た形の石の台は、ここも高さ2メートル10センチ。幅約30センチと広いので、高く跳ぶだけでなく、この幅を跳び越えるのが難しいと言う。最初は石を跳び越え、続いて、人が石の台の上に寝そべり、さらに高くして、跳ぶ。ほとんどの人は難なくクリア。中にはギリギリの人もいるが、失敗する人は誰もいなかった。
最初の助走は小走り。そして、タッ!と踏切石を踏み切って、いろんなやり方で飛び越える。足を閉じたまま跳んだり、前後に開いたり、軽々と跳ぶ。着地の時に大声を上げる人も。周囲の見物人からは「OK!」という声が飛び、拍手が湧く。跳んだ人は誇らしげな顔で、元の場所へ帰って行く。
3、4巡はしただろうか。跳ぶのに疲れたようで、「これで終わり」という合図があった。1秒(x2)で終わった前日の石跳びに比べると見ごたえがあり、「偶然ではなく本当に跳べるんだ」ということがわかった。
この日、跳んだのは、今年になって跳べるようになった若者ばかり、とのこと。先生役で、最後に見事な跳躍を披露してくれたフェルディマン・バリさん(28)は9歳の時に跳べるようになったそうだ。「自転車に乗る練習と一緒」と言う。「足裏の前部だけ使って踏み切るのがコツ。ただ、危険はあるし、勇気が要ることは確かだね。一度、足が滑って、頭を石にぶつけたことがある」。
大人たちの石跳びが終わってから、子供たちが「練習」を始めた。じゃんけんで負けた子が「台」役になり、最初はしゃがんで、それから、頭の上に手のひらを1つ、2つ置き、高さを足していく。次に、立ち上がり、頭の上に手のひらを1つ、2つ、最後は両手を思いっきり伸ばして立つ。飛び越える時に体に触ってしまったら、「台」役を交替する。
最後など、かなりの高さになるのだが、皆、次々に、見事に飛び越えて行く。皆が成功し続けているので、ずっと台を代わってもらえない子供が、自分も跳びたくて、泣きそうになってきた。Pが「代わってあげようか」と言って、私が台をすることになった。膝をついた上半身の高さ、大人の身長なので「ちょっと難しいかな?」と思ったが、子供たちは次々に、ビュン!と風を切って、頭上を跳んで行く。風を、風圧を感じた。素晴らしい。
暗くなってからの道をよそ者が通ると襲われる可能性があって危ないと村長に言われ、午後6時ごろには村を出発した。丸木橋は、先に通った時よりさらに壊れていたが、なんとか鉄の基礎部分に車輪を載せて渡り切った。そこからは、クラクションを鳴らしながらビュンビュン飛ばし、無事にグヌンシトリに帰り着いた。
この日の宿はミュージアム・プサカ・ニアスに併設されたホテルで、建物は伝統家屋を復元した物だ。木彫りが飾られた広い客間に、エアコンの効いた寝室が2つ。とてもすてきだ。問題は、トイレが1つしかなくて階段を下りた外にあり、お湯はなくて水シャワーなこと。夕食は「Makanan damai(平和な食事)」のシーフードにした。
●泊まったサーファー宿
Shady Palm Beach
Pantai Sorake, Nias
1部屋15万ルピア、夕食(焼き魚、ご飯、野菜いため)1人5万ルピア