新型コロナウイルスの影響でワヤン(影絵芝居)公演がオンラインでも行われるようになり、そんな中で「英語字幕付き」のライブストリーミングを見た。画面の左半分は生の舞台、右半分は空白のスクリーンで、そこに登場人物のせりふがスラスラと英語に訳されて書き込まれていく。せりふの合間には、状況説明や解説までもが書き加えられる。ワヤンの言葉はインドネシア語ではなく、ジャワ語。それも、王宮の言葉、通常のジャワ語、サンスクリットに関連するジャワ古語、怒りを現す特殊な言葉など、さまざまな言葉が入り乱れ、「ワヤン語(bahasa wayang)」とも言われる。ワヤンを訳すには、その複雑な言葉だけでなく、物語や音楽、語られる世情などについての膨大な知識が必要だ。同時翻訳するのは神業に近い。訳していたのは米国出身のキッシー・エマソンさん。ワヤンの同時翻訳を始めて15年になる。(池田華子、写真はキッシーさん提供)
「打ち合わせ」なし、予測なし
「この『字幕式翻訳』は、私が編み出したものなんですよ。それまでワヤンの翻訳というと、同時通訳のヘッドホンを付けて聞く方式でした。しかし、それでは、ダランの声が聞けず、ダランへの敬意に欠けると思いました。2005年、英国人の友人に翻訳を頼まれた時、プロジェクターを使って舞台の横に翻訳を投影するやり方をしてみました」
その時はまだ、要約だった。友人たちからは、「今、何をしゃべっているの?」「今、何て言ったの?」と質問された。「全部の訳はできないわよ!」と言いつつ、「いや、できるかも……」と思ったキッシーさんは、それから毎晩、同時翻訳の練習を始めた。仕事から帰ってから何時間も、ワヤンの録音を流し、ダランが話すのと同じ速度で英語に翻訳してタイプする練習をした。わからない箇所が出て来ると、ダランに聞いて確認した。こうして、今では、「同時翻訳、ほぼ全訳、解説付き」というワヤン翻訳を完成させた。
ワヤンとは、非常にスピード感のある語りで演じられる。登場人物同士の掛け合いも多い。それを耳で聞きながら、英語に翻訳してタイプしながら、ダランの語りに付いて行くのは、並大抵のスキルではない。
「私より素晴らしいジャワ語の研究者はたくさんいますが、同時翻訳はリスキーですから、やろうとはしないでしょう。私も訳しながら『あ、今のは適切な訳語ではなかった』と思うことも時々あります。しかし、あまり書き換えないようにしています。観客の注意を逸らせたくないですから」
ダランと事前に打ち合わせをしたり、「どんな話になりますか?」と聞いたことは、今までに一度もないと言う。2020年8月31日にマンタップ・スダルソノさんの演じるワヤンを訳した時、演目は「ラーマーヤナ」の「クンボカルノの死」だったが、お題は「マハーバーラタ」のビモ。事前にキッシーさんにストーリーを聞いた時は「ビモの出て来ない物語になるか、マンタップさんオリジナルの(ビモの登場する)物語になるか、どちらかだと思います」と語っていた。蓋を開けてみると、クンボカルノがすでに死んだところから話が始まるという、さらに予想外の展開だった。
「ダランとは非常に即興的な人たちです。『こういう話にしよう』と思っていても、最後の瞬間に変えたくなるかもしれない。その時、『あっ、キッシーに言ってしまったから、変えるのをやめておこう』とは思ってほしくないのです。私の方でも、『こういう話だ』と予測していて、実際は違ったら、ギアを切り替えないといけません。そうすると翻訳にブレーキがかかります。ですので、何も予測しないことにしています」
ガムランに出会ったピアニスト
キッシーさんの元々の経歴はプロのピアニストだ。米国の大学を卒業後、ニューヨークで演奏活動をしていた。1986年、「競争に疲れ、燃え尽きてしまい、別の事がやりたくなった」。その時にたまたま、ニューヨークで活動しているジャワ・ガムランのグループを見付け、初めてガムランに出会った。
ガムランに魅了され、その3カ月後には、ジャワへ。2カ月間滞在し、ガムランを学んだ。1991年に、インドネシア政府奨学金を得てソロへ留学した。グンデル(旋律打楽器)、クンダン(太鼓)、ルバーブ(弦楽器)、シンデン(歌)を習う。さらに、2004年から、「近代ワヤンの父」と称されるキ・プルボ・アスモロ(Ki Purbo Asmoro)に師事し、ワヤンを本格的に学び始めた。
ワヤンは通常、宮廷シーンから始まる。登場人物が宮廷へ入場し、長々と挨拶を交わし、会話を始め、本題がようやく明らかになるのは、ワヤンが始まって1時間ぐらいも経ってからだ。その後、王が別の宮廷へ行ったり、軍隊に命令するなどしてから、ようやく物語が動き出す。
「例えば『シンデレラ』でも、伝統的なワヤンで演じるなら、宮廷シーンから始まらないといけません。王の宮廷で、王子の嫁探し、舞踏会開催などについて話し合われるでしょう。しかし、物語の核心とは、シンデレラとその姉たちなのです。この伝統的な順番をひっくり返したのが、キ・プルボ・アスモロです。最初に物語の核心を演じ、それから『回想』という形で、物語の背景を明らかにしていきました。私の知る限り、それをやったのは彼が最初です」
キッシーさんはワヤンの同時翻訳者としてだけでなく、ワヤンの興行主になったり、同時翻訳ストリーミングを私費で行ったり、さまざまなやり方でワヤンをサポートしている。ワヤンの魅力とは何だろうか?
「ワヤンでは、誰もが、自分の投影を物語の中に見ることができます。ダランの語りを聞いていると『えっ、私のことを話しているの?』と思うはずです。ワヤンの物語は非常に豊かで、哲学が詰まっています。親子関係、兄弟同士のライバル心、恋愛、カネ、権力、裏切り……そこには全てがあります。ダランがどの物語を選んで、どのように話を創造するかもまた興味深いです」
語りの芸能、翻訳の重要性
ダランはたった一人で、いろんな人形の声を演じ分け、ナレーションをやり、歌も歌う。ワヤンは日本の落語に似た「語りの芸能」といった側面が強い。言葉がわからずに見ても、楽しめるものだろうか? キッシーさんは言う。
「イベントとして、視覚的に楽しむことはできます。しかし、言葉がわからないと、理解することはできません。ですので、翻訳は非常に重要になってくると思います」
2020年8月にインドネシア教育文化省が行った「ダランの熱気」というイベントで、8月中の毎日、ワヤンのライブストリーミングが行われた。キッシーさんは、英語、フランス語、日本語、インドネシア語の4言語による翻訳チームを結成し、翻訳ボランティアを申し出た。
公演のライブ画面を見ながら、キッシーさんが英語に翻訳し、日本語、フランス語の翻訳は、キッシーさんの英語から行う。キッシーさんが私費で雇ったストリーマーが、それぞれのリンクで配信する。31公演のうち25公演になんらかの翻訳を付け、キッシーさんは15公演を翻訳した。
しかし、組織委員会からは何の感謝もなかった。それどころか、「最初の3日間は本チャンネルのビューが減ると困るので、翻訳してはいけない」と言われたり、「本チャンネルのテロップで『英語、日本語、フランス語、インドネシア語に翻訳中。見たい方はこちらのリンクへ』と流してほしい」というキッシーさんの要請も最後まで受け入れられなかった。また、公演するダラン一人ひとりにも「翻訳を付けますので、どうぞ、ご自分の宣伝に使ってください」とリンクを知らせたが、それを活用したダランは誰もいなかったという。
理詰めで考えて行動する米国で生きてきたキッシーさんは、こうした事柄は理解できないと言う。
これまでにも「なぜ外国人がワヤンを翻訳するのか? インドネシア人がやるべきではないか」と言われたことがある。しかし、「翻訳とはネイティブが行うのが自然です。聞くのは不完全であっても、翻訳される言葉は完全でないといけないのです」とキッシーさん。
キッシーさんは今でもジャワ文化との葛藤を続けている。「私は片足ずつを両方の国に置いています。どちらかの自分を切り捨てることはできない。だから、苦闘し続けています。なぜこんなことをやっているのか、と言うと、ガムランやワヤンへの純粋な愛に駆り立てられているからだと思います。そのほかのことは大したことではないのです」
外国人がジャワ芸能を学ぶ場
キッシーさんはワヤン研究の傍ら、24年間にわたって、ジャカルタ・インターナショナル・スクール(JIS)で教員を務めてきた。来年6月に退職し、ソロに移住する予定だ。夫のクンダン(太鼓)奏者、ワキディ・ドゥイジョマルトノ(Wakidi Dwidjomartono)さんとともに2017年にソロに設立したアートセンターでの活動に専念すると言う。
アートセンターの名前は「エコロヨ・アートセンター(Ekalaya Arts Center)」。「エコロヨ」または「パルグナディ」と呼ばれる、「マハーバーラタ」に出て来るワヤンの登場人物から名付けた。
パルグナディとは、「海の向こう」からやって来た人物だ。アルジュノの師ドゥルノに弓の教えを請うが、「おまえは外国人だ。ここの人間ではない」と言って拒絶される。パルグナディは、粘土でドゥルノの像を作った。そして、その像の前で、「ドゥルノなら何と言うだろうか?」とドゥルノの言葉や教えを想像しながら、弓の修練を行った。そして、ドゥルノの愛弟子であるアルジュノが嫉妬するほどの腕前になったという。
「『どうしても学びたい』という外国人がやって来て、教師に拒絶されながらも、自分たちで練習を続ける。われわれのアートセンターにふさわしい名前だと思いました」
パルグナディの物語は、ダランによっていろんなストーリーがある。「アルジュノの嫉妬を見て、ドゥルノがパルグナディの片手を切り落とした」、または、「アルジュノ自身がパルグナディの薬指を切り落とし、それを自分の手に付けて6本目の指にした」などのひどい話もある。そして、その後、パラグナディは物語に登場しないという。
キッシーさんは「ダランになるつもりはない」と言うが、人形の動かし方も勉強している。「キッシーさんがダランなら、パルグナディのその後の物語をどのように作りますか?」と聞いてみた。「パルグナディは、その後も、修練を続けたと思いますよ」というのがキッシーさんの答えだった。
キッシー・エマソン(Kitsie Emerson)
米国出身。コーネル大学、クイーンズカレッジでピアノを専攻し、学士号と修士号を取得。ニューヨークでピアニストとして活動を続けるうち、1986年にジャワ・ガムランに出会う。1991年、ソロに留学。ガムラン、ワヤンについて学ぶ。2017年、オランダのライデン大学で、ワヤン研究で博士号を取得。ワヤンの同時翻訳、ワヤン研究、ガムラングループの指導、ワークショップ開催など、ワヤン理解を国際的に広めるための幅広い活動をしている。59歳。