目次
- お薦めする人 太田りべか
- Kerry B. Collison, “Indonesian Gold”(Sid Harta Publishers, 2002)
- Sindhunata, “Anak Bajang Menggiring Angin”(PT. Gramedia Pustaka Utama, 1983)
- Seno Gumira Ajidarma, “Kitab Omong Kosong”(PT. Bentang Pustaka, 2004)
- Pramoedya Ananta Toer, “Arok Dedes”(Hasta Mitra, 1999)
- Pramoedya Ananta Toer, “Arus Balik”(Hasta Mitra, 1995)
- Tim Penulis Sena Wangi, “Ensiklopedi Wayang Indonesia Jilid 1 – 6”(Sena Wangi, 1999)
- Dee (Dewi Lestari), “Supernova ―― Episode: Akar” (1st Edition: Truedee Books, 2002, Republish: Bentang Pustaka, 2012)“Supernova ―― Episode: Petir”(1st Edition: P.T. Andal Krida Nusantara, 2004, Republish: Bentang Pustaka, 2012) (Sena Wangi, 1999)
- Nh. Dini, “Tirai Menurun”(Gramedia Pustaka Utama, 1993)
- Ayu Utami, “Larung” (Kepustakan Populer Gramedia, 2001)
- Eka Kurniawan, “Cantik Itu Luka”(1st Edition: AKY Press, 2002, Republish: Gramedia Pustaka Utama, 2004)
- Suryatini N. Ganie, “Putri Jepara”(PT. Gaya Favorit Press, 2006)
お薦めする人 太田りべか
インドネシア文学は面白い?
インドネシア文学は面白いのだろうか?
書評を調べたり、なんらかの方針に基づいて系統的に読んできたりしたわけではまるでないし、そもそも読んだ本の数もわずかしかない。ふらりと本屋に行って、これは面白そうだとなんとなく思った本を買って来て読むという、まったくの行き当たりばったり読書を続けてきているが、面白い、これなら日本に紹介できる、と言える本には残念ながらあまり出会えていない。「おいおい、それはないだろう」と言いたくなるような、ツッコミどころ満載の本には随分、出くわしたけれど。
好みが偏りすぎているのだろうか? それもある。ついてないだけ? たぶん。
ジャンルに関しては、かなり幅広く試してみた。いわゆる純文学風のものから、歴史もの、青春もの、宗教もの、恋愛もの、おしゃれ系、ファンタジー系、推理もの、シラットもの、評伝、アニメあるいはラノベ風など。どのジャンルでも、「それはないだろう」本は健在だ。共通点は、話の展開が「それはないだろう」、そして登場人物の性格や言動などの人物造形が「それはないだろう」。
人物造形については、私的統計によると、女性作家の方が断然優れている。ひとくくりにしてはいけないことを承知で言わせてもらえば、男性作家は人間観察が足りないのか、洞察力不足なのか、それとも小説たるもの教訓がなければならぬと気負いすぎているのか……。
もう一つの「それはないだろう」は、ちょっと話題になったりベストセラーになったりすると、すぐにシリーズ化してしまう点だ。Deeの “Supernova”シリーズのように、初めからそれなりの構想があってのものならともかく(ちょっと残念な結果に終わったとはいえ)。かなり前に大ベストセラーになったAndrea Hirataの “Laskar Pelangi” などは、あれ1冊で完結するべきだった、どんなに長くても初めの3冊で終わるべきだったと残念に思う。シリーズの後続作品の中にも、ところどころ良い所はあったので、そういうのは別の短編として書くとか、どうしても “Laskar Pelangi”と関連付けたいのなら、スピンオフの短編集とかにすれば良かったのに。編集者の企画力不足ということもあるのだろうが、長編を書くには巨大な体力がいることをもっと意識してほしいと、さしでがましく思ったりする。
文化や日常生活の中で宗教が重要な位置を占めているという点も、創作の振り幅に無視できない影響を及ぼしているように思う。もちろん、筆者のような信心のない者が「それはないだろう」と思ったとしても、多くのインドネシア人読者に肯定的に受け入れられるなら、それでいいのだろうけれど。例えば、これもかなり前のベストセラー、 Habiburrahman El Shirazyの “Ayat Ayat Cinta”。話の筋も人物も「それはないだろう」だらけで、違う意味で面白く読んだものだが、筆者が日本語を教えている大学の学生に聞いてみたところ、感動したとか、主人公の男性がすてきだとかいう感想が少なからずあって驚いた。この点は、無信心者がとやかく言う問題ではないのかもしれない。
インドネシア文学の面白さを書くつもりが、つい、面白くなさを書いてしまった。でも、もちろん面白いものだってある。そのうちの何冊かをここに挙げてみた。
“Indonesian Gold”の著者はオーストラリア人で、軍人としてインドネシアに駐屯していた経歴を持つ。インドネシア人作家の作品で、このようなしっかりとした筋立てを持つ小説になかなかお目にかかれないのは寂しい話だ。
Pramoedya Ananta Toerの作品群は、圧倒的に面白い。インドネシア人作家の中で一番、ノーベル文学賞に近いと言われていたのは、作風が「社会派」だったためでもあるのだろうけれど、そういうことを抜きにしても、単純に物語として読み応えがあり、登場人物たちもちゃんと生きている。ストーリーテリングの力は群を抜いていると思う。
紹介した作品の中に歴史ものや古典をモチーフとしたものが多いのは、筆者の好みのせいでもあるけれど、昔々の話を語る時には宗教的道徳心のようなものの束縛から幾分、自由になれるから、という点も見逃せない。それに、ワヤンなどの豊かな語りの文芸ののびやかさがこっそり息づいているのも、この分野だと言えるだろう。
Eka Kurniawanの “Cantik Itu Luka”は、物語の構成や人物造形の確かさに加えて、宗教的しがらみからの自由という点でも瞠目に値する。なにしろ主人公のデウィ・アユは、日本軍によって強制的に娼婦にされた時、こう言って祈るのである。「ばっかみたい、戦争なんてこんなもんよ」。
Kerry B. Collison, “Indonesian Gold”(Sid Harta Publishers, 2002)
カリマンタンの鉱山詐欺事件、山下財宝、金塊。緊迫した場面展開で読みごたえあり。
1990年代半ば、東カリマンタンで、カナダのBre-Xミネラルズ社の地質技師だったフィリピン人男性がヘリコプターからジャングルに墜落して死亡。その2カ月後、世界最大の金鉱発見と騒がれたBre-X社のカリマンタンにおける鉱山開発事業が、サンプル偽造による詐欺だったことが発覚した。本書は、このアメリカとカナダの証券市場に大混乱を巻き起こした事件を下敷きとしたフィクション。
本書では、ヘリコプターから墜落死するのは、美貌のフィリピン人女性技師。そのおじはマルコス元大統領の片腕だった退役将軍で、旧日本軍が残したといわれる山下財宝の一部をマルコスから託されていた。その膨大な金塊の存在を明るみに出さずに現金化するために仕組んだのが、カリマンタンの鉱山詐欺だった。
この鉱山詐欺事件に、インドネシア大統領一族とその取り巻きや国軍の陰謀、先祖伝来の土地を守ろうとするダヤック人との攻防、ダヤックの族長の娘と米人地質学者との恋などが絡めて語られる。緊迫した場面展開で読みごたえあり。
Sindhunata, “Anak Bajang Menggiring Angin”(PT. Gramedia Pustaka Utama, 1983)
ジャワ版『ラーマーヤナ』の世界を堪能できる。
ラマとシンタの愛と葛藤の物語をジャワの視点から語り直したこの作品は、1981年にコンパス紙日曜版に連載され、1983年に単行本の初版が発行されて以来、版を重ねて読み継がれ、高校の教科書などにも採用されている名作。
ラマとシンタの物語だけでなく、ラマの仇敵ラーワナの母であるデウィ・スケシと世界の奥義サストラ・ジェンドラを巡る物語、ラーワナにさらわれたシンタ奪回戦でラマを助けた猿王スバリとスグリワが、元は人間だったのに、母が持っていた森羅万象を映す神秘の小函を奪い合って父の怒りに触れ、呪いで猿になってしまった話、ハノマン誕生譚など、ジャワ版『ラーマーヤナ』の世界を堪能できる。
Seno Gumira Ajidarma, “Kitab Omong Kosong”(PT. Bentang Pustaka, 2004)
『ラーマーヤナ』の後日譚。ジャワやスンダの語りの世界の懐深さを感じさせる1冊。
『ラーマーヤナ』の後日譚ともいえる物語。仇敵ラーワナを破って妻シンタを取り戻し、アヨディヤ国に帰還したラマは、シンタの貞操を疑う民の意をくんで妻を追放、白馬を放ち、その白馬の行く所、降伏しない国はことごとく大軍をもって蹂躪する。
身重の体でひとり森をさまようシンタは老人ワールミーキに助けられ、双子の男の子を産む。シンタの身の上話を聞いてワールミーキは『ラーマーヤナ』を書き始める。双子の少年は、白馬に導かれたアヨディヤの大軍を翻弄し、やがて王宮に呼ばれて父ラマの前で『ラーマーヤナ』を語り出す。
とある町の娼婦マネカは生まれつき背に馬の刺青があったが、それはアヨディヤ国の魔の使いの白馬と瓜二つだった。自分の運命が『ラーマーヤナ』の作者ワールミーキに握られていることを知ったマネカは、ワールミーキを探す旅に出る。アヨディヤ国による襲撃で両親を失った少年サティヤとともに旅を続け、2人はついにハノマンの著した究極の智の書『虚言の書』を見つけ出す。
『虚言の書』の中に、文明を失ったインド亜大陸を立て直す鍵は見つかるのか? マネカは、そしてワールミーキは自らを物語から解放できるのか? そしてこの物語の真の語り手は……? さまざまな物語が絡み合って、ひとつの大きな流れとなっていく、物語についての物語。舞台はインドだが、ジャワやスンダの語りの世界の懐深さを感じさせる1冊。物語全編の背後に流れるクチャピとスリンの風のような音楽とともに楽しみたい。
Pramoedya Ananta Toer, “Arok Dedes”(Hasta Mitra, 1999)
圧倒的なストーリーテリングで語られるイスラム以前のジャワは、迫力満点。
プラムディヤが流刑地ブル島で書き綴った歴史小説。13世紀前半、ジャワのクディリ朝で、盗賊団の首領だったケン・アロックが知略でもって領主を殺害して頂点に昇り詰め、領主の妻だった絶世の美女デデスを手に入れるまでを描いた物語。知謀策略に長けた成り上がり者の悪漢というイメージで語られることの多かったアロックの並外れた聡明さとカリスマ性に光を当て、不屈の意志で野望を遂げる男として描き出す。
夫の護衛兵となったアロックと惹かれ合い、アロックの謀反に密かに手を貸すデデス。夫の死後、領主となったアロックと結ばれて幸福の絶頂に至るはずだったが、アロックには幼なじみで闘争の同志だったもう1人の妻がいることが発覚する。新領主と2人の妃を迎える群衆の歓呼を前に、デデスが深い孤独の中で暗澹たる未来を感じ取るところで、この物語は幕切れとなる。言い伝えによると、この時デデスが腹に宿していた前領主との間の子が、実父が殺された時の凶器クリスでもって、後に継父アロックを殺害することになる。
圧倒的なストーリーテリングで語られるイスラム以前のジャワは、迫力満点。
Pramoedya Ananta Toer, “Arus Balik”(Hasta Mitra, 1995)
物語る力を味わえる大作歴史小説。
16世紀のジャワ。かつて繁栄を誇ったマジャパヒト王国はすでに衰え、船も物資も文化も、すべてが南のジャワから北へ向けて流れていた栄光の時代は終わった。今、潮流は向きを変え、あらゆるものが北方から押し寄せて来つつある。アラブ人が、イスラム教が、そして大砲を備えた巨船を操るポルトガル人が。ジャワを擾乱するイスラム勢力やポルトガルの脅威を払うため、農民出身のウィランガレンが、トゥバン軍を率いて起ち上がる。
物語る力を十二分に味わえる大作歴史小説。イスラムがジャワに根を張り始める転換期を描いていて興味深い。
Tim Penulis Sena Wangi, “Ensiklopedi Wayang Indonesia Jilid 1 – 6”(Sena Wangi, 1999)
全6巻から成るワヤン百科事典。
全6巻から成るワヤン百科事典。ワヤンの演目や登場人物はもちろん、ガムランの楽器の説明なども。登場人物の髪型や、バラタユダの戦いなどでの陣形についても図入りで説明されていて面白い。
第6巻の付録・索引部には、主な登場人物たちの系図も載っている。
Dee (Dewi Lestari), “Supernova ―― Episode: Akar” (1st Edition: Truedee Books, 2002, Republish: Bentang Pustaka, 2012)
“Supernova ―― Episode: Petir”(1st Edition: P.T. Andal Krida Nusantara, 2004, Republish: Bentang Pustaka, 2012) (Sena Wangi, 1999)
世界観にいまひとつ説得力がなく、残念な感じになってしまったが、個々のエピソードにはなかなか愉快なものがあった。特に第2巻 “Akar”と第3巻 “Petir”は楽しく読める。
2016年に第6巻が出てようやく完結した『スーパーノヴァ』シリーズ。ファンタジーとしては、世界観にいまひとつ説得力がなく、残念な感じになってしまったが、個々のエピソードにはなかなか愉快なものがあった。特に第2巻 “Akar”と第3巻 “Petir”は楽しく読める。
第2巻の主人公のBodhiは、生まれて以来、頭髪が1本も生えたことがなく、頭部に恐竜の背骨のような隆起の連なりがある異相の孤児。幼いころから常人には見えないものが見えることに苦しみながら寺で育つが、育ての親であり師でもある人物の死を機に、偽造パスポートを手に入れて海を越え、旅に出る。タイ・ラオスの国境近くで、ボブ・マーリーの元使用人だったという老ジョージーと出会ったり、黄金の三角地帯でのマリファナ摘みの仕事をしたり、密輸業者のトラックでカンボジアへ向ったり、冒険を経て、やがて奇妙なタトゥー師ケルと出会うが……。
第3巻は、主人公エレクトラと姉のワッティとの姉妹関係がいい。どこの国でも姉妹って同じなのだなあと実感する。電気屋を営んでいた両親の死後、姉は結婚して家を出て、エレクトラはバンドンの大きな古い家で1人で暮らすことになる。家はあるものの、仕事が見つからずに四苦八苦。毎日のおかずが卵だけで、お尻にできものが出来たり、魔術大学から教員募集の手紙を受け取って(同じエピソードがアユ・ウタミのエッセイ集に載っている)応募しようとしたり……。やがてエレクトラは、自分の体からの放電によって人の体の不具合を治す能力があることに気付く。
ちなみにワッティの友人にナポレオン・ボナパルトという名の人物がいるという話が出て来るが、筆者のバンドン在住の友人によると、バンドンには本当にそういう名前の方がいるらしい。第5巻 “Gelombang”にはアルバート・アインシュタイン、サー・アイザック・ニュートン、トーマス・アルファ・エディソン(主人公)という名のバタック人3兄弟が登場する。
Nh. Dini, “Tirai Menurun”(Gramedia Pustaka Utama, 1993)
ジャワの普通の人々の日常を描く著者の眼差しは、細やかで温かく、そして力強い。
1950年代にスマランを中心として中部ジャワで人気を博したワヤン・ウォン一座、Ngesti Pandowoをモデルとした物語。ジャワの別々の地方出身の4人の主人公のそれぞれの物語で幕を開ける。ワヤンの演目の進行のように1幕1幕を経て、やがて4人がワヤン・ウォン一座で出会う。才能豊かなダランと俳優たちを得て一座は絶頂期を迎えるが、映画やテレビなどの普及とともに衰退を余儀なくされていく。
ジャワの普通の人々の日常を描く著者の眼差しは、細やかで温かく、そして力強い。
Ayu Utami, “Larung” (Kepustakan Populer Gramedia, 2001)
読む者を幻想的な世界へと誘い込む語りが冴える。どのページも、幻想と予兆に満ち、めくるめく世界を造り出している。
邦訳もされた『サマン』の続編。
呪師の祖母を持つラルンは、さまざまな奇妙な人々との出会いを経て、祖母の昔の友人でやはり呪師である老女の元にたどり着く。呪術のために死期を迎えてなお死ねずにいる祖母の魂を死へ送り込む方法を、その老女は知っていた。1960年代半ばの赤狩りで多くの人々が投げ込まれたという暗渠(あんきょ)を持つ洞窟で、老女は6つの小筥(こばこ)をラルンに手渡す。
読む者を幻想的な世界へと誘い込む語りが冴える。冒頭の呪術と神秘的な人々と過去の陰惨な事件をめぐる圧倒的な描写、中間部の親友同士である4人の女性の人物像や世界観を鮮やかに浮き上がらせるそれぞれのモノローグ、後半の政治犯容疑者を亡命させようと試みるサマンとラルンの出会い、ポケットベルに執拗に送られてくる不気味なメッセージ、そして脱出行の顛末。どのページも、幻想と予兆に満ち、めくるめく世界を造り出している。
最も印象的だった場面の1つは、舞踏家として奨学金を得て滞米中のシャクンタラと、昔からの親友のライラがタンゴを踊るところ。
Eka Kurniawan, “Cantik Itu Luka”(1st Edition: AKY Press, 2002, Republish: Gramedia Pustaka Utama, 2004)
英訳もされており、2016年にはワールド・リーダーズ・アワードを受賞。
手前味噌ながら、筆者の拙訳書『美は傷』(新風舎文庫、出版社倒産により絶版)の原書。
町一番の娼婦で絶世の美女デウィ・アユが、死後21年にして墓場からよみがえるところから物語は始まる。そこから時代をさかのぼり、20世紀初頭のデウィ・アユの祖父の不思議な悲恋譚、不義の子として生まれたデウィ・アユの出生にまつわる話が語られる。やがて美しい少女に成長したデウィ・アユは、太平洋戦争勃発によって、オランダ人捕虜収容所に入れられる。デウィ・アユは日本軍のための慰安婦となることを強いられるが、苛酷な状況をたくましく生き抜き、インドネシア独立後は、名高い娼婦として町中の男の憧れの的となる。
デウィ・アユの産んだ、それぞれ父親の違う非常に美しい3人の娘たち、そしてその夫となった男たち、いずれの前にもただならぬ運命が待ち受けている。さらには、3人の孫も悲劇の中に飲み込まれていく。死からよみがえったデウィ・アユは、そして死の直前にデウィ・アユが産み落とした、世にも醜い四女チャンティックは……。
一癖もふた癖もある多彩な登場人物が入り乱れ、歴史と幻想が錯綜するエピソードに次ぐエピソードが織り成す濃密な時空間が展開する。
英訳もされており、2016年にはワールド・リーダーズ・アワードを受賞。
Suryatini N. Ganie, “Putri Jepara”(PT. Gaya Favorit Press, 2006)
100年前のジャワ貴族のモダンな食生活。
19世紀末にジュパラ県知事の娘として生まれ、25歳でこの世を去るまでの短い期間に多くの軌跡を残して、インドネシアの女性の啓蒙に大きな役割を果たしたカルティニ。本書は、カルティニの同母妹カルディナーが一家の食卓に並んだ料理のレシピを書きためたものを基に、インドネシア語でわかりやすく書き直した豪華料理本。ジャワ文字でつづられた美しいオリジナル・レシピの写真入り。
オールカラー350ページに、200以上のレシピが紹介されている。中部ジャワの料理を中心に、中華やアラブやオランダ料理の影響を受けたさまざまな料理が並び、100年前のジャワ貴族がいかにモダンな食生活をしていたかがうかがえる。
著者はカルティニの異母姉の孫に当たる人で、インドネシアでは有名な料理研究家とのこと。
太田りべか(おおた・りべか)
1995年より中部ジャワ州在住。スマラン国立大学日本語学科非常勤講師。フリーランス翻訳業。村上春樹『1Q84』、山岡荘八『織田信長』などのインドネシア語訳を手がける。