インドネシアの推しを語りつくす本「イし本」に、「バリ犬とは……」を寄稿した成瀬潔さん。本の出版後にお会いしたところ、「あれを書いて、『僕はバリ犬を好きじゃない』ということがわかった。本当の推しは、飼っていた猫」。「なにっ?! じゃあ、それを書いてください!」とお願いしたのが、こちらです。

文と絵と写真・成瀬潔
優雅な猫だった。それで「マリーアントワネコ」と名づけた。
1996年、バリに移住して1年目、バリの著名な画家クトッ・ブディアナ氏のアトリエの2階のひと部屋を借りている頃だ。借りてしばらくしてから家屋の老朽加減に呆れ「ゲゲゲの鬼太郎ハウス」と勝手に呼んでいたが、その部屋から階下を見下ろすと、2匹の幼い猫の姿をよく目にした。隣家のシルバーショップの従業員がその猫たちにときどきエサをあげているのだが、1匹は抜け目なくエサを独り占めにし、もう1匹は置き去りにされたようにいつも途方に暮れている。だからガリガリで毛並みもよろしくない。それで、ガリガリが1匹でいる時を見計らいエサを持って階段を下りた。
そんな日が続いているうちに、ある日、階段の踊り場、開け放ったドアの前にガリガリがちょこんと座って部屋をのぞいていた。
ああ、ここまでよく昇ってこれたね! それでもまだ部屋の中には入ろうとしないので入り口にエサを置いてあげた。さほど日をおかず、お邪魔しますとばかりに部屋の中にやってきて昼寝しているわたしの横に寝そべり、漫画家の赤塚不二夫氏の飼っていた猫の菊千代さん並みに両手をつかいモミモミするようになった。
こうしてマリーアントワネコとの生活がはじまった。
鬼太郎ハウスにこれ以上いつづけたらこちらの魂が吸いとられてしまいそうな気がして、一大決心をしてプリアタンにあったテラスの広い明るい一軒家に、マリーアントワネコと一緒に引っ越した。アジア通貨危機がはじまった年だ。
こぢんまりとした田園地帯で、朝には田んぼに囲まれた未舗装の道を散歩した。マリーアントワネコ(以下マリー)は、だいたいいつもついてきた。「散歩についてくる猫」というのが、まるで犬みたいでおかしかった。とはいっても、途中でかならずひとりで家にもどり、わたしが帰るのを塀の上で香箱座りして待っているのだった。
30メートルほど離れて隣家があり、現在インドネシア美術の専門家として優れた業績もあるHさんが住んでいた。じきに親しくなったが、彼女はジャヤという雌のバリ犬を飼っていて、この犬がときどきもの珍しげにわが家を訪ねてきた。
ある時、外出先から戻り門を開けて中に入ろうとすると、すぐ後ろにジャヤがいてなんとわたしのふくらはぎに歯をあてようとしているのに気付いた、とその瞬間、どこにいたのかマリーが弾丸のようにすっ飛んできて、バシッとジャヤの顔面に一撃を加えた。初めて目にした猫パンチだった。よほどの威力があるのだろう、ジャヤは悲鳴をあげ尻尾をまいて逃げ去った。
このジャヤがやがて子どもを産んだとき、3か月になったオス犬をHさんから譲ってもらいプートラと名前をつけた。
初めて飼うバリ犬で、日本の犬とはちょっと勝手が違うなと感じたのは人への懐きかたが薄い気がした。いまはそんな飼い方はしないが、その時は子犬のプートラに首輪をつけ鎖をかけてつないだ。ある時、この鎖がからんでしまい結ぼれを直そうと鎖に手をかけると、いきなりプートラがわたしの手に噛みついてきた、その瞬間、テラスにいたマリーが猛烈ダッシュで飛んできてプートラに猫パンチ一発!
彼らは親子2代、マリーアントワネコの猫パンチをくらったことになる。
※
先にも書いたように、アジア通貨危機がインドネシア経済のみならず政治や社会を激しく揺さぶる時代だった。決まった収入もないまま手持ちのルピアの価値が時間単位で下落していくのを呆然と眺めていた。
そんなある日、ベッドの上でくつろいでいるマリーにむかって話しかけた。
「あのね、日本には招き猫というのがいるんだよ。お金や幸運を招くという意味ね。そうやって、ゴロゴロ寝て、食べてまた寝てというおまえのような猫ではないわけ招き猫は、わかる?」
猫耳東風というのか、とくに理解した様子も見せずに相変わらずベッドの上で泰然としている。
ウブッドにあるネカ美術館から作品説明プレートの日本語訳の依頼が突然舞いこんできたのは、その2日後だった!
もちろんマリーには、大好物だった海苔をお礼にあげた。
成瀬潔(なるせ・きよし)
「Greenman Banana Paper Studio」主宰。1995年からバリ島ウブド在住。

